トランプ政権誕生から1カ月半。米国社会の分断をめぐる報道が続いていますが、思い起こすのは学生時代に触れた米国の姿です。レーガン政権時代、中西部インディアナ州の私立大学で交換留学生として学びました。政治学を専攻していた私にとって米国は人種のるつぼの自由と民主主義の国。疲れ果てた移民を寛容と慈愛の精神で迎えいれる「自由の女神」像に刻まれた美しい詩が好きでした。
しかし留学先で目にしたのは、保守的で人種差別が色濃く残るもう一つの米国の姿。学内に白人優越主義組織クー・クラックス・クラン(KKK)が存在し、イースターにはほんの少数の黒人学生が暮らす寮の前で、白い三角頭巾の白人学生が威嚇を行う異様な姿も目にしました。私自身、親友だったスリランカ人留学生とともに、今思い出しても切なくなるような差別を受けました。
友人に招かれて滞在した東隣のオハイオ州デイトンでは、彼女の祖父の言葉に驚きました。「孫娘が日本人と級友になるとは時代も変わった。家にいる幼い孫たちにとっても、あなたとの出会いは貴重だ。生まれて初めて目にする非白人だから」。
今で言うラストベルト(さび付いた工業地帯)の町で出会ったのは、衰退の一途をたどっていた自動車産業の労働者でも、貧困層でもなく、比較的裕福な家の人々です。彼らは「ニューヨークは米国ではない、中西部こそが本当のアメリカ」と断言していました。
トランプ政権の支持者が口にする言葉の数々は、私にとってあまりになじみのあるものです。「パンドラの箱」を開けたという人もいます。しかしこの二極化された価値観は、彼の国のみならず、私たち一人ひとりの中にも潜む生き物かもしれません。