ジェノサイド

死者を生かす

樹木希林さんが亡くなられました。NHKなどを中心に心に残る特集番組が組まれ、その言葉が紹介されています。先日、忘れられない言葉に出会いました。

「役者をやるために人間をやっているわけではない、人として生きていくための生業(なりわい)として役者をやっている」。 まず、人として生きていくことが人生の目的、はっとさせられる言葉です。そしてもう一つ。

「死ぬということは人の中に生きること

生きるということは逝った人を自分の中に生かし続けること」

思わず、山崎方代さんの印象的な一首が浮かびました。

「私が死んでしまえば

わたくしの

心の父はどうなるのだろう」(『こんなもんじゃ 山崎方代歌集』文芸春秋より)

大学は新学期がはじまり4週目、大学院のホロコースト研究(危機管理学演習「国際社会の危機管理」)の授業も4回目に入ります。

私は、実務家としては、国際協力NGO「難民を助ける会」のメンバーとして、難民支援や緊急人道支援、地雷対策など、生きている人のための仕事に長く携わってきました。しかしこれとは別に(難民を助ける会の現場での経験が出発点ではありますが)研究者としてはジェノサイド研究やジェノサイド予防を専門としています。教員・研究者としての私の大事な仕事の一つは、死者と向き合い、その声を伝えることだと思っています。

平凡に人としての生をまっとうするはずだったのに、凄惨な終わり方をした人たち。彼らのような紛争や暴力、ジェノサイドの犠牲となり、不慮の死を遂げた人たちの存在を知り、記憶し、悼む作業。そして、なぜ、どのような経緯でそうした事件が起きたのかを分析し、考察する作業は、明快な答えなどあるわけではありませんが、被害者とともに、加害者を知る作業でもあります。とても苦しい仕事ではありますが、こうした作業なしには、将来の類似の行為の予防は不可能だと考えます。

6年前の開講時、「そんな怖い授業に学生が集まるはずがない」と本気で案じてくれたゼミ生の心配をよそに毎年15名~20名が、それぞれの関心のもとに受講してくれています。学部を卒業したばかりの20代前半の院生から社会人学生まで。映画やドキュメンタリーを見、文献を読み、語り合う時間の中で、(どの授業もそうですが)特にこの授業は毎回、1度きりの「生き物」だと感じます。

ホロコーストを学ぶことは、遠い時代の遠い世界の出来事を学ぶことではありません。「こんな経験をしないですむ私たちは幸せだ」、と自分の置かれた環境に感謝することが目的でもありません。ホロコーストを学ぶことは、日本の歴史と向き合うことにつながり、そして、今、同じ時に同じ地球に生れながら、私たちの想像を超える苦難の人生を送っている人たちに思いを馳せることにつながり、そして、日々の生活やわたしたち自身、自分自身をのぞき込むことにもつながります。ジェノサイドの芽はわたしたちのすぐ隣に、そして何らかの形でわたしたち自身の中にも存在すると思うからです。

 

 

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