紛争

余所者の役目

 紛争地で対立する人々双方の話を聞きながら思うことがあります。昨日、あれほど魂に触れる会話を交わした友人が憎しみをぶつける相手と、心を通わせ話し込む今日の私。彼らが見たらどう思うだろう。そんな時です。「お前は一体何者なのか?」という声が湧いてくるのは。

 この居心地の悪さについて答えをくれた人がいます。今は存在しない国「ユーゴスラビア」が生んだノーベル文学賞作家イヴォ・アンドリッチ(1892~1975)です。故田中一生さんと山崎洋さんの名訳による短編『サラエボの鐘ー1920年の手紙』(恒文社)。多種多様な宗教がそれぞれの時間を刻むサラエボの塔の描写に触れたくなり、久しぶりに手にとりました。

 主人公のユダヤ人医師マックスが4つの宗教(カトリック、正教、イスラム教、ユダヤ教)の間に横たわる、ボスニアの風土病とも呼ぶべき「憎悪」について語ります。「今日のボスニアのような国では、憎む能力のない者・・・意識的に憎もうと欲しない者は、いつも少しく余所者で変わり者とみなされ・・・」。

 そうか。私は「余所者」なのだ。だから一方の側に立って態度を決めることができないのだ。

 2017年末に閉廷した旧ユーゴ国際刑事裁判所(ICTY)。検察官や判事が、被害者・犠牲者の方々の側に立つのは当然のことです。しかしその断罪の仕方に強い違和感を覚えたのは、部外者が当事者同様の態度をとることに対してだったように思います。

 そう思う私は、立場を決めない卑怯な者でしょうか。

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