白梅のつぼみが膨らみ始めたころ、近所で一人暮らしをしていた母が急逝しました。本当に明るく元気な母でしたが、この2年間は認知症と癌との闘いでした。新聞やテレビで日々特集される認知症と高齢者の癌対応。その記事をまさに実践するような日々でした。
最初に診断を受けた近所の病院では、癌の治療はできないということで近隣の二つの病院を紹介され、家からより近いという理由である大学病院を選びました。
2023年秋に手術、年齢も年齢なので、抗がん剤や放射線治療はしない、という選択をしました。再発のないまま天寿を全うしてくれることを願っていたのですが、2024年の初夏に再発。母と私たち家族にとっては明らかな異変でしたが、定期健診を終えたばかり、ということで、主治医の予約はなかなかとれませんでした。9月、癌の再発が検査によっても確認され、10月にかけて放射線治療をしました。11月はよかったのですが、12月に入ると、再び痛みを訴えるようになりました。12月中旬の定期健診時の母とこの執刀医の会話が忘れられません。
「大丈夫でしょうか?」と必死で問いかける母に「大丈夫じゃないです。癌なのだから」
「痛いんです」。「手術のあとだから仕方ないです。我慢してください」
「先生、どうにかなりませんか」「どうにもなりません」
不安になった母が電話をしたことがあったようなので、そのせいか、とも思いましたが、「とりつく島もない」、「剣もほろろ」、とはまさにこのことかという態度でした。
そもそも、術後は、「積極的な治療をしないのが治療」、という説明を受け、母はともかく、私たち家族もその点に納得・同意していました。強い抗がん剤で治療をしては、体力のない高齢者は癌ではなく副作用で命を落とす、という説明にも納得していました。
この時期の母は、既にホスピスの紹介も受けていました。それゆえ、治療をしないことを選択した母のような高齢の患者に対しては、積極的治療が目的の大学病院ではこういう態度をとるしかなかったのかもしれません。あるいは、大丈夫でもないのに、大丈夫、といって、後で訴えられでもしたら目も当てられない、そういうことかもしれません。
この医師と母とのやり取りを、二人の医大生、ともに女子学生でしたが、じっと見つめています。もし彼女たちのどちらかが、おばあちゃん子だったら、「医師になっても私は決してこういう態度は取らない、取るまい」と思ってくれるのだろうか、それとも、偉い先生の態度にならい、将来同じことを患者に言うのだろうか。そんなことを考えながら視線を上げると、困ったような表情でこちらを見てめる看護師さんと目があいました。
ただこの執刀医は、認知症である母に対して、子ども扱いをしたり、認知症の患者扱いをすることはありませんでした。横から付き添いの私が口をはさんでも、私のほうは見ようともせず、ただ、正面から母の方を向いて、母にだけ、語りかけました。
「大丈夫じゃないです。癌ですから」
もうこの病院とはおしまい、そう思い近所の病院に紹介状を依頼し、この大学病院を後にしました。この時の、母の不安げな様子と表情が切なくて、なんとか必死にこの主治医の良いところを見付けようとしたせいかもしれません。ふと思い出したのが、ずいぶん前、対人地雷禁止条約採択に向けた、オタワ・プロセスの一連の会議でよく一緒になったある、あるアメリカ人看護師の言葉です。
彼女、マリアン・ホルツは当時50代半ば。アメリカの難民支援NGOから派遣され活動していたザイール東部(現在のコンゴ民主共和国)で、移動中の車両が対戦車地雷に触れ大破、彼女は両足を切断、脊椎を損傷、顔の一部が裂け、搬送時、顎を針金で縛りつけておかねばならないような大けがを負いました。1995年10月のことです。
車いすの彼女は、対人地雷のサバイバーとして、地雷禁止条約採択に向けたオタワプロセスの一連の会議で、地雷の悲惨さを廃絶の必要性を訴えていました。
ある時、彼女に聞いたことがあります「あなたは、選ばれたのだと思いますか」と。自分の母親に近い年齢の彼女に、なぜ、そのような不躾な質問をしたのかわかりません。ただ、発音もままならない治療中の彼女のあまりに痛々しい姿と、その姿と対照的なメッセージの力強さに尋ねずにはおれなかったのかもしれません。彼女の答えはこうでした。
「思わない、まだそう思えない。そう思うには、このけがと治療が辛すぎる」
そのあと彼女が続けて語った「耐え難いこと」の一つが、「人が自分を一人前の人間として扱ってくれない」ということでした。看護師として4人の子供を育て上げ、子供たちの成長を見届けてから、国際協力の道に入り、ソマリアや、スーダン、ルワンダという危険地で経験を積んできた彼女。その彼女が言います。「パソコンを買いに行っても、店員は車いすを押す息子の方ばかり見て、息子にだけ話しかけて、私の方を一切見ようともしない。使うのは私なのに、お金を払うのも私なのに」
何年も忘れていたそのその時のことを、母に「どうにもなりませんよ、癌ですから」という医師のことを考えていたときに、突然思い出しました。
この医師の母に対する態度は、思い出す度、切なくなります。が、この医師は、認知症の母を少なくとも、一人前の、一人の人間として扱っていました。パソコンの画面をみながら、横目で、ではなく、回転いすを回して母の正面に体を向け、母と膝をつきあわせるように、言いました。
この医師の態度とその時の母の表情が忘れられない私は、いったい彼に何を望んでいたのだろうと自問します。母に「大丈夫ですよ。心配ないですからね」と煙に巻くような優しい言葉をかけ、私に向かって、事細かに病状を説明する態度でしょうか。もしそうだとしたら、どちらが、母を一人の人間として扱うことになるのだろう、母の尊厳を守るとはどちらの態度を指すのだろうと、思います。母が亡くなる2か月ほど前の出来事です。
私の日常を知っていた家族や友人たちは、よくやった、といいます。ですが、二人きりの時に私が投げかけた言葉の数々を知っているのは、母と私だけ。後悔は尽きません。
母が教えてくれたもっとも大切なことの一つは、人生の最後の一か月、あるいは1週間の意味です。
1月、大学人としては当然ですがとにかく忙しく過ごし、病院の付き添いやケアマネさんとの打ち合わせ、身の回りの物理的な世話はしつつ、それだけで疲れ果て、「もっといてほしい」、という母を「忙しい」と何度も振り切って帰宅、あるいは出勤しました。どうしてあと少し、ほんの少し、お茶をいっぱい一緒に飲むことができなかったのか、と取りかえしのつかない、詮無い思いにとらわれます。
が、母が逝ってしまった今、人生を終える最後の一か月もそれ以前も、どれも大切な一日だったと気づきます。誰にとっても、今日の一日も、最後の一日も、かけがえのなさは、一緒です。あまりに月並みですが、今、目の前の人に誠意を尽くすことが母を思うことにつながるように思います。
今までの国際協力の世界では、出会うことのなかったたくさんの方にお世話になりました。ありがとうございました。