紛争

ビールの産地をみる私は「バルカン上級者」?

科学研究費助成事業(科研費:平成29年度)の助成を受けて、旧ユーゴ諸地域(セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア)を調査出張中です。3年計画の研究課題名は、「ICTY判決とジェノサイド後の社会の相克 ― スレブレニツァを事例として」。

ICTYとは、昨年、2017年末に24年の歴史に幕を下ろした国際戦犯法廷、国連国際刑事裁判所の略称です。スレブレニツァとは、ボスニア東部の人口4万人ほどの小さな町。凄惨を極めた旧ユーゴ紛争の中でも、最大規模の虐殺事件であり、ICTYで唯一、ジェノサイド(集団殺害)罪が適用となった象徴的な事件の発端となった地名です(*注)。この研究課題は、ICTYやスレブレニツァをめぐる判決が、事件の加害者・被害者双方にどのような意味をもったのか、またlocal/regional/internationalの3つのレベルの民族融和や和解、紛争の再発防止にいかなる影響を与えているのかを、関係者への聞き取りなどを通じて考察しようとするもので、今後のジェノサイド予防やジェノサイド研究に資することも目的としています。

私は、事件当時、難民を助ける会(AARJapan)の駐在員として現場近くにおり、また事件の関係者とも面識があったことから、逃れられない運命のように、博士論文でもこの事件を扱いました(拙著『スレブレニツァ あるジェノサイドをめぐる考察』(2009年東信堂)ご参照)。そこで、一度はけりがついたはずでした。しかし、2年前、研究休暇の年に思い立ち、7月11日のスレブレニツァ陥落の日の慰霊祭に出席し、現場を回ったことがきっかけとなり、再びさまざまな疑問や関心が頭をもたげ、この地に舞い戻ってきてしまいました。

一昨年、昨年に続き今年は、過去3年で最も長い2週間の出張期間になり、特にボスニア国内を、関係者にインタビューしつつ、陸路長距離で移動を重ねています。この問題にかかわり続けることを後悔しそうな重苦しい旅ではありますが、今日は、その研究課題から離れて、小さな自慢をさせてください。

ご承知の方も多いと思いますが、ボスニア紛争を終結に導いたデイトン和平合意の結果、ボスニアは、ボシュニャク(イスラム)系およびクロアチア系住民が中心の「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」と、セルビア系住民が中心の「スルプスカ共和国(RS)」という2つの主体(エンティティ)から構成される特殊な国家となりました。それぞれのエンティティが独自の大統領、政府を有するなど、高度に分権化された国家形態です。連邦側にはボシュニャクおよびクロアチア系住民が、RS側にはセルビア系住民が圧倒的に多い、とはいえ、もともとが3民族混住の地、戦前とは住民が大きく入れ替わったとはいえ、それでも、やはり、各地域に3民族が入り混じって居住しています。そんな混住の地を車で移動しつつ、私はその町や地域に住む人々を、ある程度言い当てることができます。

政治的背景、あるいは一般的な知識から、ここはボシュニャクの町、ここはセルビア人の村、ここはクロアチア人の町ということはもちろんできます。3民族を象徴する宗教施設、モスクやミナレット(ボシュニャク系)、カトリック教会(クロアチア系)、正教会(セルビア系)や、道路沿いに広がる墓地の墓石や墓標の形からも、時にたなびく旗からも、どの民族が住む町なのか、それらは一目瞭然です。しかし、幹線道路沿いにこれらの目印がなくとも、私は、かなりの確率で、その町や地域の主要住民を言い当てることができるのです。なぜか!?

それは、ボスニアの津々浦々までをカバーした詳細な民族構成地図が私の頭の中に入っているから、ではもちろんなくて、カフェやレストランの、テラスや軒先をおおうテントに、でかでかと印刷されている「ビール(Pivo)」の銘柄によってです。多くは、産地の地名ですが、大半は飲んだことがあるので(!)、味も香りも色も様々な、これらの銘柄と民族名がある程度直結するのです。

紛争中、この地に難民を助ける会の職員として駐在していた頃、さまざまな場所で、同じ外国人の援助関係者やメディアの人と、地元の難民局や赤十字の人々と、地元の職員や友人たちと、時に停電で、生ぬるいビールをちびちびと飲みつつ、語り合った思い出はどれもこれも強烈です。その時感じていた出口のない閉そく感とともに、戦況や、紛争終盤になっても発生し続けた難民の状況、援助の課題などとともにありありと思い出すことができます。

そんな風に私の中に刻まれたビールの産地とその地の民族名。個人的な思い出はともかく、私の見分け方を地元の研究者仲間に、スレブレニツァへの移動中に披露したところ、彼から「あなたはバルカン上級者だ!」とお墨付きをもらいました。「え、上級者!?」 ビールが判断材料というところがみそです。私のかすかな自慢です。

注*ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争末期の1995年7月、国際連合(国連)の安全地帯に指定され、国連防護軍(UNPROFOR)のオランダ部隊によって防御されていたボスニア東部の人口4万あまりの町が、ラトゥコ・ムラディチ将軍率いるボスニア・ヘルツェゴビナ セルビア人共和国軍(VRS)の攻撃にあっけなく陥落、その後約10日間に、徒歩で脱出を図った1万5千人ほどのムスリム人男性の内、約7,500名が行方不明となり、この内捕虜となった多くの男性が処刑された「戦後欧州で最悪の虐殺事件」とも言われています。

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