(会長をしている難民を助ける会のホームページに2022年3月14日に公開したものです。)
先日、NHKラジオ(3月8日放送三宅民夫さんの「マイあさ!」)に出演し、ウクライナの人道危機についてお話した折、難民問題とともに、国外へ逃れられない、難民にも避難民にもなれずに、国内や自宅に留まる方々のお話をしました。
戦闘地帯やその周辺に住む市民を安全に退避させるための避難ルート「人道回廊」を一定時間確保するための停戦合意がことごとく破られ、あるいは確保できた避難ルートがロシア側につながる避難ルートであったため、バスや車に乗り込みながら、避難できなかった大勢の方々がいます。この方々の一刻も早い退避の実現を願いつつ、同時に、治安上の理由ではなく、国内に留まらざるを得ない人たちの状況への懸念をお伝えしました。
例えば、長距離を移動することが難しい一人暮らしのお年よりや高齢の方々、障がいのある方、病気やケガをしている人。そして臨月を迎えようかという妊婦さんたち。重篤な症状で治療を受けている患者さんたち。さらにそういう方々の後ろには、世話や介護をしている家族、医療や福祉の関係者の方々がいます。
人口約4200万人のウクライナから、記録的な速度でポーランドをはじめとする周辺国に難民が流出しています。UNHCRの推計によればその数は3月11日時点で女性と子どもを中心に250万人。最大で400万人、つまり10人に一人、あるいはそれ以上にまで増えるとの見方もあります。しかしたとえそうであったとしても、圧倒的多数のウクライナの人々は老若男女問わず、国内に避難民として、あるいは危険が残る地元に居続けることになります。
本当に弱い人は逃げられない。難民の大量流出の現場で私がこの事実を目の当たりにしたのは、今から四半世紀も前のボスニア紛争のさなかです。拙著『スレブレニツァ あるジェノサイドのめぐる考察』のあとがきに記したことですが、一度に発生した難民数としては最大といわれた20万人の難民・避難民が流出した95年夏のことです。輸液セットなどを4輪駆動車に詰めるだけ積み込んで、避難する難民の列とは逆行して、避難民支援の拠点になっていた地点に援助物資を運んだ時のこと。
じりじりと容赦なく照りつける太陽の下移動する人の波。着のみ着のまま、疲労と空腹と恐怖や先の見えない不安を抱えて亡霊のように移動する顔、顔、顔。
最初に出会ったのは、高級外車を飛ばして退避する身なりの整った人々でした。次に、ザスタバという小さなユーゴの国産車に、ぎゅうぎゅう詰めに、体を丸めて乗る人々。そして、トラクターに家財道具一式、中には棺桶までをくくりつけて、避難する人。日焼けしたおばあさんの横で、腕のちぎれた人形を大事そうにかかえる女の子の姿もありました。その後に、家畜に引かれた荷馬車が続きました。そしてその列が途切れるころ、駅で、バスや列車などいつ動くともしれない公共の輸送機関を待つ、自力の移動手段を持たない人に出会い、さらに前線近くの地域までいくと、お年寄りや障がい者など自力では一切動けない人々がいました。
それは東日本大震災の時も同じでした。被害が最も大きかった東北3県の沿岸部自治体では、身体、知的、精神の各障害者手帳の所持者のうち犠牲になった人の割合は、住民全体の死亡率に比べ2倍以上高かったことが、報道機関の調査で明らかになっています。また、福島第一原発近くの自治体にある病院や高齢者施設では、厳寒期の避難により死者が多数でたことは私たちの記憶に新しく、さまざまなリスクを勘案し、退避ではなく、その場にとどまること選択した病院もありました。
NGOである私たちにできることは限られています。だからこそ、東日本大震災の復興支援においても、日本国内の他の災害でも、海外の難民支援においても、そして復興の過程にあっても、このような方々への支援に優先的に取り組んでいく組織でありたいと考えています。
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