人道支援

新しい安全保障法制を考える―『人間の安全保障』の視点と、人道支援に携わるNGOの立場から

【難民を助ける会|理事長ブログにて執筆】

5月14日に新たな安全保障法制が、閣議決定される見込みです。いろいろな立場や考え方から議論があると思いますが、ここでは、人道支援に携わってきた日本のNGOの立場から、また日本政府が、わが国の政府開発協力(ODA)の指導理念と位置付け、国際社会にその重要性を訴えてきた「人間の安全保障」の視点から発言をしたいと思います。

人道支援の視点から

「人道支援」という言葉本来の、あるいは組織的な人道支援の生みの親である、赤十字国際委員会(ICRC)が作ってきた歴史的意味でいうならば、人道支援とは、単に危機に瀕した人々の人命救助や、命をつなぐための食料や水、生活物資の配布ではありません。人道組織によって、敵味方の区別なく、戦闘外に置かれたすべての人々に対して行われる活動のみを指す言葉です。戦闘外に置かれた、の意味は、戦争や紛争に無関係な一般の市民のみならず、たとえ兵士であっても、負傷したり病に倒れた傷病兵や、捕虜になった兵士など、武器を置き戦闘の外にある人々をも対象としています(むしろ歴史的には、戦闘外に置かれた傷病兵に対する、敵味方の区別のない支援から始まりました)。そして、こうした危機に瀕する人々の元へのアクセスを確保し、確実に支援を届けるためには、すべての紛争当事者や武装勢力から紛争当時者とみられない、つまりいずれの関係者にもくみしないという意味の絶対的な中立が不可欠です。そのため、人道支援は、人道の原則、すなわち人道的関心に基づいて、独立・中立・公平・不偏不党の原則にのっとって行われなければならないのです。

冷戦の崩壊で、世界の紛争の構図は、正規軍による国家間の紛争から、武装勢力や不正規軍による内戦、地域的な民族紛争へと戦争の質やアクターが変化しました。

それに伴い国連平和維持活動(PKO)も量質ともに大きく変化し、また「テロとの戦い」により、多国籍軍による国連の枠外での活動も多く登場するようになりました。これに呼応して、人道支援活動を行うアクターも変質しています。赤十字組織や私たちNGO、UNHCRやUNICEF、WFPなどの国連人道機関とは別に、政府や軍隊、民間の軍事会社も緊急・復興期の国際協力活動に参入することとなり、人道機関以外の組織による、人道原則に基づかない、政治的な支援活動も、「人道支援」と呼称されるようになってきています。安倍首相が強く主導する人道支援がまさにそれであり、また小泉政権時代のイラクにおける人道復興支援もこれに当たります。このような文脈で行われる学校建設や道路の復旧といった活動の内容そのものは、人道機関により行われる援助活動と同様であるかもしれません。しかし、イラクと戦争をした当事国が、米国ではなく、ロシアや中国であったならば、日本政府が自衛隊を派遣することも、ODA予算を大規模に投入することもなかったでしょう。同盟国米国の行う戦争・紛争で傷ついた人々を救うための活動であるならば、これは本来の意味での「人道支援活動」ではなく、単なる「支援活動」というべきものです。

他方で、人道支援機関、私たちNGOは、イラクで戦争をした国が米国であろうとなかろうと、政治的背景とは関係なく、そこに困難な状況にある人々がいるならば、一切の区別をせずに支援活動を行うことになります。もちろん、NGOもそれぞれの組織のミッション・目的や、得手不得手、活動地の危険性に対する認識や組織としての許容度、その時々の持てる資源(資金、人材、情報・ノウハウ)など組織の事情により活動できる現場とそうでない現場が出てくるという限界・現実はあります。だからこそ、真に人道的な活動を行うためには、政府資金のみに頼らず、皆さまからのご寄付が決定的に大切です。

そして本来の意味の人道支援は、このように紛争の質が変化した時代にあって痛みと危険を伴う、非常に難しい任務です。日本政府が、自らを「人道支援国家」と位置づけ、積極的平和主義の下、国際の平和と安定のために、そしてわが国の国益のために復興・人道支援を行うというのであれば、政治的中立を貫き、すべての勢力の、戦闘外に置かれた人々の支援に注力すべきです。これは新たな安全保障体制の中であっても同様で、声高な対決姿勢を打ち出し、同盟国の求めに応じ、特定の地域に対して行う支援は、断じて人道支援ではないからです。

日本は、同盟国米国の核の傘の下にあり、それ故、経済や環境領域は別としても、安全保障の領域、安全保障問題については、常に米国と歩調を一つにし、共に歩むしか選択肢はないのでしょうか。

ここで私は、私たちの国日本には、安全保障領域においても人道的な観点から独自路線を貫いた前例と経験があることを想起したいと思います。私たちが地雷原で活動する支援団体として、その一端を担った1997年の対人地雷禁止条約への署名と加入です。小渕首相(当時)は、カンボジアで地雷除去や被害者の支援を行いつつ、自国の地雷を保持し続けるのは筋が通らないと発言され、米国とは一線を画して、米国が加わらないことを表明していた対人地雷禁止条約への参加を、政治的に決断したのです。対人地雷という、軍事的に決定的に重要とはいえない小型の通常兵器だからこそ可能になったと指摘される方もおられるかもしれません。しかし、対人地雷がもつ象徴性は高く、日本の地雷禁止条約への参加表明が米国の国防省関係者に与えた衝撃は、同じ同盟国であっても、ドイツが参加した際のそれとの比ではなかったと米国のメディア関係者が語っています。

人間の安全保障の視点から

わが国の政府開発援助(ODA)は、日本政府の言葉を借りれば、「戦後一貫して平和国家としての道を歩んできた我が国に最もふさわしい国際貢献の一つ」(平成27年2月10日に閣議決定された開発協力大綱(2)基本方針より)です。その指導理念として日本政府が重視し、世界に発信してきた重要概念が、「人間の安全保障」です。

この「人間の安全保障」は、カナダが主導した「保護する責任(R2P)」論とは決定的に異なり、事後の、武力による「介入」の論理ではなく、人間を中心に据えた、徹底的な「予防」の概念です。日本が長く行ってきた中東地域のみならず世界各国におけるODAによる国際協力は、まさにこの「人間の安全保障」概念に沿った、紛争の予防に寄与する取り組みだと考えます。私たちAAR Japan[難民を助ける会]の活動も、日本政府にNGO補助金の制度ができた1989年以来、皆さまのご支援とともに、常に日本政府のこのODA資金により支えられてきました。

また「人間の安全保障」は「対話」の概念でもあります。「人間の安全保障」の人間が地球上の全ての人間を意味する以上、こちら側に住む人の「人間の安全保障」とあちら側の「人間の安全保障」が対立することはままあります。この事実を政策決定者や、私たち国民に意識化させ、その対立を乗り越えるため、「対話」を要請するのも「人間の安全保障」概念だと考えます。

人道的課題であるとともに安全保障領域の課題でもある対人地雷問題で、米国が参加しない、対人地雷禁止条約へ日本が参加した前例があるように、日本政府が「人道支援外交」を目指すのなら、米国とは一線を画した独自の道があるはずだと考えています。

今般の安全保障体制で、自衛隊の海外派遣は大きな変化を遂げています。紛争地をはじめとした海外の現場にいる私たち日本のNGOにとっては、自衛隊が派遣された国や地域において、地元の人々や紛争当事者から、遠い日本の島国からやってきた絶対的に中立、不偏不党な存在として、認識されるかどうかが決定的に重要です。そのように認識される自衛隊が、自衛隊の方々の強みである高い士気や経験、能力、装備やロジスティクスを最大限生かし人道的な観点から、「支援活動」に従事されるのであれば、私たちAARも、特に大規模な自然災害の現場などでは、連携や協力が可能だと考えています。

他方で、紛争当事者とみなされる米国やその同盟国に対して、「後方支援」であれ何であれ支援活動を行い、紛争当事者である米軍や他国の軍隊と同一視されることになれば、私たちは、そうした自衛隊とは、あらゆる意味で、距離を置き、一線を画した活動をしていくことになると思います。

緊急事態の「駆け付け警護」であったとしても、現地のさまざまな勢力から紛争当事者とみなされる軍事組織である自衛隊から警護を受けることになれば、ごくごく短期的な局地的な意味での安全は確保されるかもしれませんが、長期的には危険性が高まります。私たちNGOが紛争当事者と同一視されることになるからです。同時に、すべての人へのアクセスの確保がかなわなくなる、つまり、すべての人を支援する、という私たち人道支援NGOの存在意義の根本に関わる支援ができなくなるのです。

「非軍事的協力によって、世界の平和と繁栄に貢献してきた我が国にとって」とは先の開発協力大綱の中にある言葉です。軍事ではなく、非軍事の領域で、「人間の安全保障」の視点にのっとり、事後の介入より、事前の防止、紛争予防に寄与する国際協力・開発協力こそ、日本の安全保障の最重要の根幹にあると考えます。
(2015年5月12日)

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