【難民を助ける会|理事長ブログにて執筆】
「長先生は1995年7月11日から2021年に戻られましたでしょうか。」
昨春、修了した元ゼミ生からのお正月明けのメールです。コロナ禍で大学院の修了式がなくなり、ちょうど1年前の修士論文審査会での対面が最後になっていました。その後も、やり取りは続いていたのですが、近況を尋ねられる度、「今、私はボスニアにいるの」「今日は7月16日にいるの」と伝えてきたため、こんな挨拶になりました。
昨年、2020年は、ボスニア紛争終盤、約8,000人のムスリム男性が命を落としたスレブレニツァ事件から25年にあたります。このブログでもつづってきましたが、私は、加害者側にあたるボスニアのスルプスカ共和国の議会が立ち上げたスレブレニツァの犠牲者のための国際真実委員会の委員として報告書の作成にかかわっており、また、昨年初頭に開催したシンポジウムの成果をもとに、登壇者の方々のご協力を得て、論文集『スレブレニツァ・ジェノサイド 25年目の教訓と課題』(東信堂)を編んだこともあり、スレブレニツァ事件と対峙し続けた1年でした。
もちろん、オンラインが中心になったとはいえ、授業や論文指導、日々の大学業務や会議、そして難民を助ける会の仕事もありました。さらに秋以降はこのほど増補改訂版が出版された中公新書『入門 人間の安全保障』の作業にも没頭していました。
しかし、誤解を恐れず、またコロナ禍の年に何をしていたのか、とそしりを受けることも覚悟の上で告白するなら、そうした時間以外のほとんどの時を、私は1995年のボスニアで過ごしました。
博士学位論文で扱ったスレブレニツァは、事件の全体像の解明に取り組んだものの、PKOや安全保障理事会の決定など、国際社会の介入の分析が主眼でした*。その後、しばしの中断を経て、2016年から再開したスレブレニツァ研究では、「ジェノサイド」と名付けられた事件の、実態をより正確に把握するため(というより、積み残しの謎を解くため)、徹底的に現地に足を運び、より実証的な地域研究・歴史研究を試みました。さながらそれは「ダークツーリズム」ともいえる旅でしたが、それまで図上で理解していた事件の現場、つまり、たどれる範囲でのムスリム男性の避難ルート、複数の虐殺現場、遺体が遺棄された一次・二次埋設地、といったポイントを訪ね、歩きまわりました。帰国後は、裁判記録や数々の証言・文献と照らし合わせて再検証し、翌年再び、別の地点に足を運び・・・。そうした作業を繰り返すうち、特にどこにも行かず(行けず)に、ひたすら裁判記録と思考を行きつ戻りつした昨夏は、自分が95年のそこにいるかのような錯覚さえ覚えました。そして、さらに突き詰めていくうちに、事件を未然に防ぐことができるターニングポイントに立っているかのような気さえしました。
この場所で、この時点で、この人物(たち)が、こうすれば、事件は起きなかったし、防げたはず。8,000人ではなく、最小限の犠牲で済んだはず。加害者側もこのような犯罪に手を染めることなく、獄中で一生を終えることもなかったはず。
真夜中に、事件を未然に防ぐ糸口をつかんだと確信するたびにひとり興奮し、犠牲者も、加害者となった人々も双方を救えたような気持ちになり、そこに希望を見た思いがし、充足感に満たされ高揚し・・・。しかし、決まって次の瞬間、当たり前のことに気付くのです。学部時代の恩師・鴨武彦先生の言葉ですが、「歴史にifはない」こと、そして時計の針はもはや元には戻せないことに。その瞬間の、全身の力が抜けていくような、脱力感と徒労感、そして頭から水を浴びせかけられたような感覚はうまく言葉では言い表せません。
突き詰めていた対象は、時により、加害者側であったり、被害者側であったり。あみだくじのように、それぞれがそれぞれの時点で別の判断・別の選択をしていたら、その後のバルカンの歴史も、国際政治も、多くの人々の人生も違ったものにはっていたはずです。そして、2020年のボスニアには、今とは違う顔ぶれの若者たちがたくさんいたことでしょう。あの人たちが生きていれば、戦後たくさんの子供たちが生まれていたはずですから。
そんなことを何回繰り返したでしょうか。そして私は、1995年の7月のボスニアと2020年のコロナ禍の日本とを行ったり来たりしていました。
もうすぐ、東日本大震災の発生から10年を迎えます。難民を助ける会が主催する震災から10年のオンライン・シンポジウムで、「東日本大震災と人間の安全保障」と題した基調講演をすることも決まりました。このタイトルでお話するためにも、しっかり2021年に戻って、再びこのブログでも発信したいと思います。
*2009年に博士論文をまとめて出版した著書の題名は『スレブレニツァ あるジェノサイドをめぐる考察』(東信堂)ですが、そもそも2007年に提出した学位論文のタイトルは「スレブレニツァ・ジェノサイド : 冷戦後のジェノサイドへの介入をめぐる考察」でした。