シンポジウム「人道危機、その時、人道と開発の連携を超えた支援をどう行うか―武力紛争と自然災害の事例比較から見えてきたことー」2019年6月4日 於JICA市ヶ谷ビル
「人道危機対応における人道と開発の連携」
立教大学教授/NPO法人難民を助ける会理事長 長 有紀枝
皆様、本日はようこそ、本シンポジウムにおいでくださいました。
「基調講演」という僭越なお役目を承りましたが、私は、このあとに続くゴメスさんのご本の紹介(私も、チームの一員として参加させていただきました)、とそのあとに続くパネルディスカッションのいわば「前座」として、次の2つを目標に、お話してまいりたいと思います。
- 限られた時間の中で、人道問題・開発支援の連携に対し、全般的、holistic な考え方を提示し、後半のパネルを活性化すること
- この後のゴメスさんの書籍紹介のご発表の意義や価値を高めること
まず本書のキーワード、鍵となる概念の定義から始めます。本書のタイトルはCrisis Management, Beyond the Humanitarian-Development Nexus ですが、本書において
- 「コンティニュアム」とは人道危機への対応において、単なる人道支援で終わらせないために、緊急人道支援(relief)、復興支援(recovery)、予防(prevention)、時に開発(development)までを、連関させ、つなげようとする試み
- そして、crisis managementとは、こうしたコンティニュアムを実現しようとするプロセスです。こうした定義をした上で、本書が目的としたことは、
- 国際社会の人道危機対応、とくに自然災害と武力紛争への対応をめぐって、これら、continuumがどの程度、実現されているか、を検証することです。
本論に入ります。本書、第1章の記述に重なりますが、過去20年、国際社会が人道危機対応に関して注視してきた課題に、皆さまもよくご存知の、「人道的な調整(coordination」と 「人道から開発へのネクサス(連結・結合)」という2つの課題があります。これらのうち、前者の「調整(coordination)」については比較的、明快に対応策が講じられてきたといえると思います。
たとえば、現在進行形の課題であり、今世紀アジア最大の人道危機といわれる、ミャンマーのラカイン州北部から、バングラデシュに流入した、ロヒンギャ難民への人道危機対応が、一つの典型例を示しています。
国連世界食糧計画(WFP)の元アジア地域局長で、現在、AAR難民を助ける会の常任理事をおつとめ頂いている、忍足謙朗さんが、先日AAR主催のシンポジウムにて、非常に興味深い発言をされました。
忍足さんは、この春AARの活動地の視察で、80万人ものロヒンギャ難民を抱えるバングラデシュ東部の、「メガキャンプ」という異名をとる難民キャンプを訪れたばかりですが、この近年で最速・最大規模の難民危機とされ、80万人のメガ人道支援都市の様相を呈している、ロヒンギャ難民キャンプが、(彼らの今後は別にして)、現在、「維持されている」というそのこと自体、国際人道支援システムが機能し、よく調整されている証左だと力強く語りました。
言わんとすることはこういうことです。 国連諸機関、国際NGO、バングラデシュのローカルNGO、そしてバングラデシュ政府が、それぞれの持ち場で、誰がどこにいて、何を担当するのか、それを明確に意識し、調整し、これだけの数の人を、死なせないで、保護をし、そして住居を提供し、食べさせている。もちろん、細かな課題は山積してはおりますが、「国連も、NGOもバングラデシュ政府もそのことを誇りに思うべきだ」というご発言でした。(もちろん、この先、この状態が何年続くのか、出口がどこにあるのかは、あまりにも不透明で、残念ながら明るいい材料はないのですが)
さて、他方で、2つ目の課題、まさに本書、本日のシンポジウムの主眼でもあるわけですが、「緊急支援から復興、開発に至るまでの連続的な実施」は、どうでしょうか。1991年の国連総会決議46/182以来、これまで様々な名称や概念で呼ばれ、多くの取り組みがなされてきました。EUによるLRRD(Linking rehabilitation and Development)、米国援助庁USAIDによる緊急人道支援から開発への取り組み、UNHCRと世界銀行による、Brooking Processと呼ばれる、「ギャップ」というアプローチ、そして、日本の、緒方貞子前JICA理事長が推進された「継ぎ目のない支援」Seamless assistanceなどなど、しかし、30年近くが経過した現在でも未だにその模索は続いているといえます。まさに古くて新しい課題ですが、この違いはどこから来るのでしょうか。
私は、人道的な調整と、人道から開発へのネクサスという2つの象徴的課題は、出現した時期や出現する場所は同じでも、実は本質的に全く異なる性質の問題ではないかと感じています。一つ目の調整は、それぞれの団体のレゾンテートルに係わる、困難な課題ではありますが、それでも実務的な課題であり、解決可能です。
他方ネクサス、あるいは、本書でいうところのコンティニュアムという課題は、人がいかに生きるべきかというような、根源的な、あるいは普遍的問いを含んでおり、そもそも、解決を試みようとする類の問題ではないのではないか、と感じています。
人はいかに生きるべきか、それこそ、文献に残るところでは、ソクラテスやプラトン、アリストテレスといった古代ギリシャのポリスをめぐって哲学的な議論が戦わされた時代の記録が、いきいきと現代にも生き続けているように、たぶんこの課題は、一朝一夕に解決する問題ではなく、永遠の援助の課題であり続け、同時に援助者の振る舞いを評価する、リトマス試験紙的な意味合いを含んでいると思います。では、こうした質の違いはどこからくるのでしょうか。まず、これらの問題が出現した時期を確認することから始めます。
この人道援助の調整やネクサスという問題が出現する舞台となったのは、あるいはこれらが出現するタイミングになったのは、世界がそれまでの国際社会=いわゆるinternational societyから、新しい「国際社会」、つまりinternational communityへと変貌した時期に重なります。
ご承知のように冷戦が終焉し、国際社会が一致した行動を取ることが可能になった時代に、その行動を正当化する概念としてしばしば使用されるようになったのが「インターナショナル・コミュニティ」という概念でした。そこでは、その名の下に諸国間の国際協力が奨励され、あるいはそこで一定の役割を果たすことが、その一員としての「責務」とされ、また「介入」が実行されました。換言すれば、「国際社会(インターナショナル・コミュニティ)」の存在を、調整やコンティニュアムが課題になるような援助の現場は、前提としているといえます。その端緒となった事例が、1990年8月に始まったイラクのクウェート侵攻です。
安全保障理事会は、朝鮮戦争以来初めて、国連憲章7章に基づく軍事的制裁措置を発動しました。
イラクのクウェート侵攻は、領土保全という、共通の価値観への挑戦とされ、その意味でこの国連決議は広く「国際社会(インターナショナル・コミュニティ)」の認知を受け、またそれを代表するものとされたのでした。以来、共通の価値観(国際の平和と安定に対する脅威)に対しては、「国際社会」の合意や授権が、その行動を正当化するよりどころとなっています。では、一体何が国際の平和と安定に対する脅威に該当するのでしょうか。
そもそも国連憲章で定められた安全保障理事会の権限は、第二次世界大戦の惨禍を経て創設された国際連合そのものの目的でもある「国際の平和と安全の維持」であり、軍事的な脅威、安全保障に対する権限です。しかし、冷戦の崩壊と湾岸戦争のイラクへの介入を契機に、この脅威の内容が大きく変容することとなりました。
従来の軍事分野(安全保障問題)のみならず、非軍事分野も平和に対する脅威になりうることが確認され、かつその解決が最優先課題とされたのです。国際社会の「共通の価値観」の明らかな拡大といえます。ただし、その後の憲章第7章発動の事例を見るならば、非軍事的分野として挙げられた経済・社会・人道・環境4項目のうち、人道問題だけが新しい「国際の平和と安全への脅威」として扱われ、AIDSの脅威に対する決議を除けば、経済・社会・環境問題を理由にした憲章第7章の発動例は生まれていません。
こうしたその後の実行を見ると、冷戦後の国際社会において、本来は安全保障理事会の任務の対象外であるはずの人道問題が、安保理が主要な責任をもつ国際の平和と安全の維持にかかわる問題、憲章第7章の発動理由として加えられたと言えます。緒方貞子難民高等弁務官が安保理でUNHCRの長として初めて発言をされたのもこのころです。こうした背景が、冷戦期以降の、国際社会の基調にあります。そして、これらを特徴づけるもう一つの事象がアクターの多様化です。
危機や災害の規模、発生地の地政学的な事情、国際的なメディアの関心の向け具合にもよりますが、メガ危機の現場では、人道的アクター(NGO、赤十字組織、UNHCR・UNICEFなど国連機関)、政治的アクター(政府・政府機関及び国連、EUなど地域機構)、軍事的アクター(国連軍(平和維持軍)、国連の指揮下で活動する地域機構軍、地域的な軍事同盟、国軍、国軍以外の軍事組織、武装集団)、宗教的アクター(キリスト教会、イスラム教会系組織など)、その他、一般企業や個人、そして民間軍事会社などが入り乱れている状況です。
従来、人道的関心や共感、慈善といった視点での国際的な危機や貧困に介入する主体は、緊急人道支援に対しては、赤十字国際委員会(ICRC)、そしてその後に続いた緊急救援NGO、開発に関しては、18世紀後半から19世紀にかけて、キリスト教会およびキリスト教系団体が植民地へ布教活動と共に行った社会福祉活動、およびそれを源流に発展していった開発系のNGOの領域でした。
他方で、政府の支援はあくまでも外交の一政策であり、国際関係における援助の機能を、「一国から他国への公的チャンネルを通じた資金、財、サービスなどの資源の移転と定義すれば、その歴史は近世にまで遡ることができる」といわれます。「補助金」という名の援助が、外交政策の手段として頻繁に用いられた17、18世紀にはじまり、それは軍事分野で大きな存在感を示します。常備軍が大国を除き、不在であった時代の傭兵部隊の貸与から、冷戦期の自陣営への囲い込みのための援助、冷戦構造崩壊後も現在まで続く軍事援助の流れがまずあります。もちろん、借款のなどの経済領域での支援も莫大なものですが、いずれにせよ形態に変化こそあれ、政府にとって援助は重要な外交戦略・軍事戦略の一部であることに変わりはないといえるでしょう(田中224-227頁)。
ここで、日本人に大きく関係する事例を示したいと思います。外務省のホームページに「ガリオア・エロア資金なかりせば 」と題した大変興味深い記述があります。
「第二次世界大戦直後の日本は、まさに灰燼の中にあった。その混乱と疲弊から立ち直り、経済大国への道を歩む上で、アメリカからの資金援助である「ガリオア・エロア資金」の果たした役割は計り知れないものがあった。
1946年から51年にかけて、約6年間にわたり日本が受けたガリオア・エロア援助の総額は、約18億ドルであり、そのうちの13億ドルは無償援助(贈与)であった。現在の価値に換算すれば、約12兆円(無償は9.5兆円)となる膨大な援助であった。この援助がなければ日本の復興は考えられなかったのである。」 というものです。
これは、外務省のHPの「ODAちょっといい話 第二話 戦後の灰燼からの脱却」というコラムの冒頭に出てくるものです。ホームページの記載はこの後、「日本はこのような援助を受けながら成長を遂げて、援助される立場を卒業して援助する側になり、アメリカを凌ぐ世界一の援助国になった。そして早くも1954年には、コロンボ・プランに加盟し、援助する側の一員として南アジアや東南アジアの国々への支援を開始することになった、とまさに「いい話」として紹介されるのですが、私はこのコラムは、「ちょっといい」どころか「かなりぎょっとする」話として読みました。
ガリオア・エロアとは、小学生が社会の授業の中で初めてこの言葉を聞けば、まるでアメリカの気前のいい、愛情にあふれた篤志家、親切な足長おじさん・おばさんの名前のようですが、このコラムの注釈を引用すると
- ガリオアGARIOAとは、第二次世界大戦後の米政府による「占領地救済政府基金(Government Appropriation for Relief in Occupied Area Fund)」の頭文字
- エロアEROAとは同じく「占領地経済復興基金(Economic Rehabilitation in Occupied Areas)の頭文字
ガリオア資金とは米国の「軍事」予算の一部を使って、旧敵国を支援するために設立されたものなのです。
同じホームページに、同時期に日本に送られた、ララ物資とCAREによる民間からの資金、国連(すなわちユニセフ)からの資金、そして世銀からの資金に関する記述がありますが、これら全てあわせても、ガリロア・エロア資金の総額約18億ドルに対し、約10億ドル強(注1)、約55%にすぎません。日本の復興に拠出したアメリカの「軍事」予算が、いかに巨大であったかがわかります。今日私たちが享受している暮らしや政治経済社会システムは、アメリカの軍事戦略の結果と考えると、やはりこれは、「ちょっといい話」という次元ではないように思います。同時に、本日のコンティニュアムの議論にも示唆に富むように思います。
コンティニュアムが成功するというのは、相手の国を思いやる、という以上に、このような壮大なかつ明確な政治戦略とそれを支える財政支援、そして、対象国のオーナーシップやその国民の不断の努力の賜物としてはじめて実現するものだと思うからです。
話を現在の援助の現場に戻します。現在、目的も優先順位も異なるドナー諸国、それぞれの組織の風土・文化も意思決定のプロセスも、手続きの煩雑さも異なる世界各国の官民による実施主体が存在します。また国により、税金をもとに活動する国家の宿命である、納税者への説明責任の示し方が異なり、そもそも各国の納税者が考える優先順位も異なります。
私は以前、人間の安全保障という概念の強みを語る際に、人間の安全保障は分断されていた事柄のリンケージを可能にする概念であり、その対象は、食糧、教育、地雷対策、医療等 といったイシュー間のリンケージや、組織・機関間のリンケージのみならず、時間軸・タイムフレームのリンケージでもある、人間の安全保障は、古くて新しい課題、緊急・人道支援から復興・開発支援への移行過程で生じる溝・ギャップを埋める概念でもありうると主張しましたが、その際、私は人間の安全保障概念の強みを説明するため、細かく診療科が分かれる大病院での診療に例えて問題提起をしたことがあります(注2)。
現在の開発援助も人道援助も、援助の現場はまさに西洋医学的な様相を呈し、それゆえに専門性が担保される一方で、分化している。それゆえ、子どもを支援する組織は高齢者を見ない、地雷の支援ではHIVは見ない、というように、現地の状況を全体として捉える視点が欠けている、ひとえに供給側の都合で理解しようとしているのではないか。
他方、(単純化しすぎではありますが)、患者の観点(デマンドサイド)から患者の肉体を全体としてみようとするのが東洋医学であるとするならば、人間の安全保障はまさに東洋医学のように、現在別個の領域として扱われている、保健とか教育とか雇用などすべてをつなげる強みがある、という主張でした。
この人間の安全保障とコンティニュアム概念と対比するならば、あるいはコンティニュアムを再び医療に例えるならば、ことはさらに深刻な例えになります。人間の安全保障の対象が一人一人の個人であるとするならば、コンティニュアムの対象は一つの大きな現場、あるいは事象です。
ここでコンティニュアムが実現されていない、クライシス・マネジメントができていない現場の人道支援を外科手術にたとえるならば、それは、重篤な危機的状況にある患者の外科手術の最中に、患者の容態や状態は不変であるにもかかわらず、患者の患部は切り開いたままの状態で、いきなり、医師や機材や薬品や輸血用の血液を総入れ替えされることを指すように思います。
想像してみてください。患者の患部は開いたままです。そこで、患者からすると突然、医療側の都合で、予算が異なるから、専門が異なるから、管轄が異なるから、という理由で、外科医が変わり、機材や装置が取り替えられることを意味します。
ではコンティニュアムの実現にどのように対処したらよいのでしょうか。 それは、安易にすぎる解答のようですが、そのような課題が存在し、これを解決しない限り、受益者に資する支援の実現は不可能であるという点を、強烈に意識し、常に念頭に置いた計画・政策を立案し、事業化していくこと。この課題が存在するという事実を、援助者、組織、ドナー、それぞれに強烈に意識させ、警鐘を鳴らし続けること。それが答えであり、これに尽きるように思います。
それを意識しているかいないかが、援助者の振る舞いや政策に如実に反映されると思うからです。そして、今回の出版物は、まさにその試みの最たるものです。たとえ、解決に至らずとも、この普遍的ともいえる重要課題に正面から取り組んだのが本プロジェクトです。
そのお披露目ともいえる今日のシンポジウムが、ご来場の皆様にとって、そして間違いなく、この概念の実現にむけて、国際社会の主要なプレーヤーの一つであるJICAにとって、意義あるものとなることを願ってやみません。 以 上
注1 これらはそれぞれ、
- 1953年から導入されはじめた世界銀行(国際復興開発銀行)からの低金利の融資は合計8億6,000万ドル(当時の日本円で3,200億円)
- 「ララ物資」の救援総額が推定で約1億ドル強(当時の日本円で400億円)。ララ(LALA)とは戦後、日本を救済するために、アメリカ、カナダ、中南米の各地から集まった資金や物資を一括し対日救援物資として送り出す窓口として1946年6月に一本化された「公認アジア救済連盟(Licensed Agencies for Relief of Asia)」の略称。
- 戦後のヨ-ロッパを救済するために、終戦直後の1945年にアメリカで設立されたNGO「ケア」(CARE:Cooperative for Assistance and Relief Everywhere)が1948年から55年にかけて、日本などに送った食品・日用品などの「ケア物資」は金額にして5000万ドル(当時の日本円で180億円)
- 国連児童基金UNICEFが、日本の子供たちのために提供した資金、約1700万ドル(当時の日本円で65億円)
注2 国連フォーラム 《対談》国際仕事人に聞く 「援助は一番大事なことはできない」~防災と人間の安全保障~ 長有紀枝さん x 田瀬和夫さん(2015年)
《引用文献》
- 田中義皓『援助という外交戦略』(1995年、朝日新聞社)
- 外務省ホームページ 「ODA ちょっといい話 アーカイブ 日本が助けてもらったエピソード第二話 戦後の灰燼からの脱却」https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/hanashi/story/1_2.html
《参考文献》
- 長有紀枝『入門 人間の安全保障 恐怖と欠乏からの自由を求めて』(2012年、中央公論新社)
- 重田康博『NGOの発展の軌跡―国際協力NGOの発展とその専門性』(2005年、明石書店)