集団殺害同様、その後の一連の作業は、少数の軍人の手に負えるものではない。
スレブレニツァ陥落の翌々日の七月一三日、約一〇〇〇名が殺害されたポトチャリにほど近いクラビッツァの農業用倉庫では、近郊のグロゴバ村に遺体が埋められた。後に掘り起こされ、スレブレニツァ南方のゼレニ・ヤダルに再埋葬されるが、この一連の作業は、数夜にわたって続いたとされる。
移送の途中、移動経路にあたる町の住民が、トラックが通過した際の耐え難い遺体の腐敗臭を嗅ぎ、トラックの荷台から突き出た足など遺体の一部を目撃している。目撃者はいたのである。
スレブレニツァ事件の真相解明に向け、OHRの度重なる要請に、セルビア人共和国は事件から一〇年後の二〇〇五年、スレブレニツァのジェノサイドに直接、間接に関与したセルビア人共和国の軍人・文民一万九四七三名の名簿をボスニア・ヘルツェゴヴィナ検察局へ提出した。
この名簿には、遺体の回収、収容、移送、埋設作業にかかわった民間の輸送業者やその運転手、掘削業者、洗浄業者の名前があった。スレブレニツァ事件発生後一〇年を経て、約二万人が、ムスリム人の殺害とその後の遺体の処理に関与したことが明らかとなった。
しかし、これだけの人間がかかわっていても、あるいはこれだけの人間がかかわったからこそ、埋設地の全容はなかなか明らかにはならなかった。
繰り返される言葉は、「何も聞いていない」「何も見なかった」あるいは「知らない。知らなかった」である。
紛争中のサラエボで、ムスリム人のみならず、セルビア人も殺されたことを最初に報道した一人というムスリム人のジャーナリストに話を聞く機会があった。「サラエボのような都会なら、人と違った意見を口にすることはたやすいし、声を上げやすい。しかし小さな町や村に行けば行くほど、人と違う意見は聞かれなくなる」。
各勢力ともに、証言者への嫌がらせや脅迫も続いた。事件の翌一九九六年、ブラニェボ農場での惨殺を海外のメディアに告白したVRS所属のエルデモビッチは、ICTYに訴追される前、証言を止めようとする勢力に銃撃された。
同様の事件はクロアチアでも起きている。セルビア人住民が惨殺された事件をICTYで証言しようとしたクロアチア人男性が自宅に仕掛けられた爆発物で命を落とした事件もある。
ナチのジェノサイドがそうであったように、ジェノサイドや大規模な人権侵害は、計画者や実行者の外側に、濃淡はあれど、あらゆる層の加担者が存在して初めて可能となる。
スレブレニツァ事件も、ムラディチ将軍やその指揮下にあるVRS部隊とは別に、(実際に手は下さなかったとしても)その外側の、一般市民の無言の協力なしには成立しなかったのだ。
近郊の町にある虐殺現場の一つになった小学校の校庭に立ちながらその事実を、炎天下、一瞬、周りから一切の音がかき消えるような感覚で実感した。
さらに恐ろしいことには、ICTYの膨大な裁判記録や証言録に立ち入ると、協力者のみならず実行者も、戦前は決して特殊な人種や人物でなかったことがわかる。親切で快活な青年、子どもたちに空手を教え誰からも信頼されていた地域の人気者。極悪非道な犯罪人やごろつきは少ない。
ムラディチ将軍もその一人ではなかったろうか。
筆者はスレブレニツァ事件発生当時、難民支援に従事するNGO「難民を助ける会(AAR)」の駐在員として現場近くにいた一握りの日本人あるいは外国人の一人である。
事件の前年、父親の拳銃を使って自殺を遂げたムラディチの長女と、AARの現地職員が同じ医学部の学生として親しかった縁で、筆者自身、ムラディチと事件の数カ月前に面会し、家族とともに、三時間余りを過ごしたことがある。
一九九五年の三月のことだ。青く優しい目が印象的なムラディチ将軍の筆者に対する第一声は、この年一月に起きた阪神淡路大震災の被災者に対するお見舞いの言葉だった。
ムラディチは言った。「今回の戦争は、自分にとって初めての、それも自分の土地と同胞、自分の家族を守っての戦争だ。
国連軍のイギリス兵の中にはフォークランドやイラクなど一二回目という軍人もいる。こうした人間にどうして自分が平和を説かれなければいけないのか、自分は自分の土地から一歩も外には出ていない」
間違いなく彼は、戦前から名の知られた犯罪者でも、ごろつきでも、いわんや殺人鬼でも、異常性格者でもなく、そして善悪の判断を放棄し命令に従っただけの人物でもなかった。
この時、垣間見たムラディチの印象は、優秀な職業軍人であり、誠実で家族思いの、模範的な国民であり愛国者であった。
そうした人物を冷酷、残忍、そして、残虐非道なジェノサイドの首謀者に変えたもの、それが「戦争」なのだろうか。ジェノサイドと戦争との連関は冒頭で述べたとおりである。