5 ユーゴスラヴィア人、ボスニア人

 チャンチャリ道路沿いの二次埋設地を探して、スレブレニツァは初めてという運転手のD君とともに、幹線道路から外れて舗装されていない山道に入り込んだ。

 黒く焼け焦げたまま戦火の痕跡が色濃く残る家々は、二〇年という歳月が流れたことに気付かないほど、すべてが生々しい。

 不安を募らせながらも車を走らせると、日焼けした農夫が目に留まった。車を止めて集団墓地への道を尋ねると、このまままっすぐ行けばよいと教えてくれる。

 安心したのもつかの間、険しい顔の年配の女性が現れた。「あんたたち、一体どちらの集団墓地のことを聞いているの。セルビア人かムスリムか、あんたはどっちだ」。

 私の未熟なボスニア語の力でも、張り詰めた雰囲気と言わんとすることは伝わってきた。しかしD君の発した言葉は意外なものだった。

 「すべての集団墓地を探しています。僕はユーゴスラヴィア人だから」。サラエボの空港近くドブリニャ地区出身の彼は、戦争初期に父親を惨殺され、その後難民としてドイツで暮らした。

 その彼の口から「ユーゴスラヴィア人」という言葉が飛び出すとは思ってもみなかった。再び先を急ぐ車中、「あなたの振る舞いに驚いた」と正直な気持ちを口にすると、「ユーゴスラヴィアは、戦前の良い時代を思い出させてくれる魔法の言葉だと思う」と言う。

 東欧の地域研究やバルカン近現代史が専門の柴宜弘によれば「ユーゴスラヴィア人」という民族概念は、第二次世界大戦後の自主管理社会主義体制のもとで既存の民族を超える新たなユーゴ統合の政策概念として、共産主義者同盟によって導入された。

 思うような成果があったわけではない。しかし特に民族間の接触が頻繁な都市部で人々の間の潤滑油として機能し、民族の混住地域で両親の民族が異なる子供は自らを「ユーゴスラヴィア人」と規定することが多かった。ある地域の民族的少数者が、多数者による同化の圧力に抵抗する手段として「ユーゴスラヴィア人」を選択する場合もあった。

 この「ユーゴスラヴィア人」同様、時の民族政策や政治状況と密接に関連する概念が「ボスニア人(ボシュニャク)」である。

 一五世紀後半以降、オスマン帝国の直轄統治を受けていたボスニア・ヘルツェゴヴィナで、一八七八年ハプスブルク帝国にその行政権が移行すると、ハプスブルク帝国は、セルビアやクロアチアの民族主義のボスニアへの浸透を防ぐために「ボシュニャク」概念を導入した。

 しかし皮肉にもこうした上からの政策への反発が、各民族・宗教共同体への帰属意識を一層明確にさせる結果となった。その後、一〇〇年の時を経てボスニア紛争中に、この「ボシュニャク」がよみがえる。ムスリムに与えられてきた民族概念である「ムスリム人」に代わり使われ始めるのである。

 既存の民族の枠を超えるこれらの概念。しかし、戦後の国造りの鍵となりそうな「ユーゴスラヴィア人」の存在は現在、法的にその存在の余地がない。デイトン和平合意が、多民族・多文化の共生社会としつつも、国家の構成民族を、ボシュニャク、クロアチア人、セルビア人の三民族に限定しているためだ。

 そしてもちろんこの合意文書にある「ボシュニャク」はハプスブルク的解釈による「ボスニア人」ではない。

 「停戦には成功したが、国造りには失敗」したとされるデイトン。三民族の融和・共生を特別視するあまり、融和に欠かせなかったユーゴスラヴィア人の存在とともに、いずれの民族にも属さないユダヤ人やロマなど、少数民族が政治の表舞台に立つことは叶わない法制度がしかれている。

 三人の大統領はボスニア・ヘルツェゴヴィナ全域に責任を有するものの、各民族集団から選出され、すべての国民に対する責任を負っているわけではない。

 社会・経済的にも、ボスニア連邦内に住むセルビア系住民はマイノリティとして政治経済的な差別を受け、他方、セルビア人共和国内に暮らすクロアチア人やボスニア人も同様の差別を受けることになる。

 こうした流れの中で物議をかもしているのが、二〇一三年一一月に、紛争終結以来初めて、実に二二年ぶりに実施された国勢調査である。地域の民族構成比が、議会の議席配分や公務員の採用に直結すると同時に、海外への人口流出で三民族のいずれかがその他民族を下回ると、憲法に定められた三民族体制を揺るがしかねない。

 その深刻さ故、未だに、結果が公表されていないが、ここで注目されるのがハプスブルクのボスニア人概念を彷彿とさせるような「ボスニア・ヘルツェゴヴィナ人」を自称する、いずれの民族にも属すことを希望しない、新たな人々が現れていることだ。

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