戦後70年と、歴史に名前を残さない一人ひとりのための『人間の安全保障』

8月になりました。終戦70年の年のまさに8月です。世界を見渡せば、シリアやアフガニスタン、南スーダン、DRCコンゴ、ガザと、紛争の渦中で「終戦」「戦後」をひたすら待ち焦がれている人がいます。そのことを忘れずに、でもだからこそ、日本の「今」を再び「戦前」にしないために、皆さまと同様、私も自分の持ち場で、しっかりと、できること、なすべきことをしていきたいと思います。

そんな思いを込めて、今日は、その戦争についての「断片」を記してみたいと思います。

AAR Japan[難民を助ける会]のHP上で、直接AARの活動と関係のない第二次世界大戦が語られることに違和感をお持ちの方もおられるかもしれません。しかし、AARは故・相馬雪香会長が生粋の反戦・平和主義者であった実父・尾崎咢堂から引き継いだ思想を基に、日本を2度と再び世界の孤児にしない、という強い思いの下で設立した組織です。その意味で、AARが今、世界で起きている紛争のみならず、日本が経験した戦争について考えることは、まさにAARの活動の本質を考えることでもあると思うのです。たぶんに個人的感慨の多い原稿になることを、また脈絡なく戦争についてつづることを「ブログ」という形態に免じてお許しください。

満州からの引き揚げとボスニア紛争

今から20年前の1995年、「戦後50年」の夏。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の真っただ中で、私はAARの駐在員としてボスニアと隣国セルビア、クロアチアを駆け回っていました。後に博士論文でも扱うことになるスレブレニツァの虐殺が起きた時です。時を同じくして、クロアチア人勢力による「嵐作戦」により、クロアチア東部やボスニア西部のセルビア人居住地域が陥落、20万人ともいわれるセルビア人難民・避難民が発生します。

旧ユーゴ紛争を通じ、一度に発生した難民・避難民の数としては最大規模のもので援助関係者にとっても「悪夢」としか言いようのない状態でした。20年前の今日、8月5日、私たちは医療用の点滴を4輪駆動車に積めるだけ詰み込んで、避難する難民・避難民の列に逆行して、ボスニア西部を目指しました。

初めて目にする「20万人」という人間の列。じりじりと情け容赦なく照りつける太陽の下、着のみ着のまま、疲労と空腹と恐怖や先の見えない不安を抱えて、亡霊のように移動する人々の顔。

今でも目に焼き付いているその光景は、中学生か高校生の頃に聞いた、満洲からの引き揚げの記録や記憶と奇妙なほど一致していました。逃げてくる人々の集団には序列がありました。まず、BMWやベンツなど高級外車を飛ばして退避する身なりの整った人々。そして、その後にザスタバという地元の小さな国産車に、ぎゅうぎゅう詰めに、大きな体を丸めて乗る人々。そしてトラクターに家財道具一式、中には棺おけまでをくくりつけて、避難する人。

その後に、馬に引かれた荷馬車が続いていました。荷馬車には長年の農作業からか褐色の肌をした、ほほのこけた老夫婦。そして、片手のちぎれた人形を抱きしめる孫娘と思われる汗びっしょりの小さな女の子。そうした列が途切れるころ、私たちはいつもの倍、10時間以上をかけて西ボスニアのバニャルカに到着しました。そしてそこには、バスや列車などいつ動くともしれない公共の輸送機関を待つ、車やトラクターなど自前の移動手段を持たない人。さらに前線近くの地域までいくと、お年寄りや障害者など自力では一切、文字通り一歩も動けない人々がいました。

故・相馬雪香会長も、5歳を筆頭に乳飲み子を含め4人の幼い子どもを抱えた満州からの引き揚げ者の一人でした。

東京大空襲

私がこの世に存在するのは、東京大空襲があったからです、というと誤解を招くかもしれませんが、事実はこうです。昭和8年生まれの東京の下町出身の父は、戦火が激しくなり、学童疎開で学校ごと母の実家がある茨城県の町に避難していました。父はその後昭和20年の3月に、中学受験のため、友人らとともに東京の生家へ戻ります。そこで東京大空襲に遭うのです。

焼け出された父たちは、祖父母とともに、まずは親戚を頼りますが、既に避難者であふれて居場所もなく、結局、偶然にも祖母の妹の嫁ぎ先があり、父の学童疎開先でもあった母のいた町に居を定めることになります。私の両親はこうして出会いました。もし3月10日の大空襲がなかったら、父はそのまま東京にとどまり、茨城に戻ることはなかったでしょう。 先日、母とそんな話をしていた折に、一緒に疎開していた父の学友の大半が3月10日に亡くなったこと。中には、子どもたちの帰宅に合わせ、疎開していた家族全員が東京に集まった折に大空襲に遭い、一家が全滅した友人の家も多くあったと父から聞かされていたことを知りました。その父も亡くなった今、学友たちの物語を聞く機会も逸してしまいました。

いつの頃か、テレビ番組で東京大空襲の語り部でもある海老名香葉子さんのインタビューを見たことがあります。海老名さんは、故・林家三平師匠夫人・おかみさんです。国民学校の5年生の時、東京大空襲でご両親、おばあさま、おふたりのお兄さんと弟さんを亡くしています。特に弟さんは空襲で大変むごい亡くなられ方をしたそうです。海老名さんは、「これまで生きてきて、どんなにうれしいことがあった時も、どれほどつらいこと、悲しいことがあった時も、あの時の弟たちのことを思い出すとかわいそうでかわいそうで、涙が出る」と涙ながらに語っていました。

海老名さん自身、激動の人生を歩んで来られた方だと思います。その方が、命日や記念日だからではなく、どんな時も、どんなにつらいことがあった時も、うれしいことがあった時も、その日のことを思い出すと涙が出るとおっしゃったのは、衝撃でした。そういう記憶とともに、日々生きてこられた方、生きている方が、日本にも、そして世界にも多くおられるのだと思います。

「アンネは一人いればいい、数え切れない人々の顔は、世に知られることもないだろうがもしすべての人々の苦しみを分かち合えるとしたら我々は生きていけないだろうから」アウシュビッツから生還したユダヤ系イタリア人作家、プリモ・レヴィの言葉です。オランダはアムステルダムにある、現在は記念館となっているアンネ・フランクの隠れ家に掲げられています。

自分の家族や友人、知人一人の不幸にさえ胸のつぶれる思いがするとき、ユダヤ人600万人や、東京大空襲の10万人、広島の14万人、長崎の7万人、そして5000万人とも8000万人ともいわれる第二次世界大戦の犠牲者一人ひとりについて、アンネや、野坂昭如さん原作・高畑勲監督のアニメ映画『火垂るの墓』の幼い兄妹や、折り鶴に思いを込めた広島の佐々木禎子さんのような物語が語られたなら、私たちは正気ではいられなくなるかもしれません。

しかしあらためて想起するまでもなく、すべての犠牲者一人ひとりに物語があり、家族があり、今現在もシリアやイラク、アフガニスタンで紛争の犠牲となって倒れる人々、対人地雷の犠牲者、HIVや飢餓で命を落としている人々、AARの職員たちが現場で出会う一人ひとりに語り尽せないストーリーや物語があります。

しかし私たちはあまりに鈍感です。鈍感にならなければ普通の生活が営めないほど、悲しい物語に満ちているといえるのかもしれませんが。

先のプリモ・レヴィ、そして広島の被爆者であり『コレガ人間ナノデス』という詩を残した原民喜、いずれも、時代は違いますがともに、戦後、せっかく生き延びたというのに、自ら死を選んでいます。自らの記憶を他者に伝えることに絶望してとも言われます。私たちの鈍感さや無関心がそうさせたのでしょうか。

名もない一人ひとりのための人間の安全保障

「人間の安全保障」は日本政府が外交の柱としてきた重要な概念です。冷戦後の国際社会で「国家の安全保障」だけでは、人間一人ひとりの安全は保障されないという共通認識から生まれました。「国家の安全保障」が、歴史に名が刻まれる人々によるものであるとしたら、「人間の安全保障」は、歴史に名前が記録されることもない、名前を知られることもない大勢の人々、一人ひとりに焦点を当てた概念、そして、一部の人のために一部の人に犠牲を強いない、つまり社会に「周縁」を作らないことを目指す概念です。

参議院で安保法制が議論されています。法案が可決されてもされなくとも、そのままでは日本にも世界にも平和は訪れません。そこからです。

私たち市民、選挙民一人ひとりが、先の戦争を記憶し、なぜ、それが起きたのかを学び、反省し、武力や軍事力に頼らずに平和を築く努力を、それぞれの持ち場ですることが、突然生を断ち切られた人々からも求められているように思います。2度と繰り返さないために。終戦から70年目の8月に。 (難民を助ける会理事長ブログ第19回。2015年8月5日)

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