二〇一七年末、一つの国連機関が二四年の活動に終止符を打った。
一九九〇年代初頭、冷戦構造の崩壊とともに噴出した旧ユーゴスラビア紛争は民族紛争の代名詞ともなった。その戦争犯罪人を裁いた国際刑事法廷の閉廷である。 欧州で第二次世界大戦以来最悪と言われた旧ユーゴ紛争(一九九一〜九五年)。
その凄惨さとともに、明石康国連事務次長が旧ユーゴスラビアに展開していた国連PKO・国連保護軍(UNPROFOR)のトップを務め、緒方貞子国連難民高等弁務官(UNHCR)がその難民支援に奔走したことで、多くの日本人の記憶に刻まれていよう。
そして本来国内法で裁かれるべき個人が、国際法によって国際的に裁かれるという事象は、設立主体に、戦勝国と国連という差があるとはいえ、ニュルンベルク・極東軍事裁判所に連なるものでもある。
この戦犯法廷と日本との関係は、決して遠くはない【注1】。
閉廷間もないこの段階で、また筆者の力不足から二四年の歴史すべてをまとめることはできない。断片的な試みとなるが、その遺産と教訓とを、日本のNGO・難民を助ける会の駐在員として旧ユーゴ紛争の救援活動に携わり、この地に多くの友人・知人を持つ者として、またジェノサイド予防にかかわる研究者として、論じてみたい。