4 「反セルビア的」との批判

ICTYが反セルビア的である、という批判が主にセルビア人の側から、また少数派ではあるが、西欧ジャーナリズムでも一部のジャーナリストや研究者の間で繰り返されてきた。

それらは、決してセルビア人武装勢力や犯罪者が行った残虐な犯罪、スレブレニツァの虐殺事件などを否定するものではないものの、ICTYが反セルビア的すぎるという批判は根強い。

しかし、ICTYが反セルビア的であることは驚くにあたらない。なぜなら、ICTY規程に裁く対象となる民族名は明記されていないものの、国際社会、特にアメリカおよび欧州のメディアでボスニア・ヘルツェゴビナにおける、セルビア人勢力による、イスラム教徒に対する残虐な犯罪が喧伝され、ICTYはそれを停止させるために設立されたものだからである。

ICTYを設立した決議八二七が採択される半年以上前から、関連する会合や会見の席で、特にアメリカの要人たちが、訴追対象の民族集団のみならず、その政治的、軍事的指導者・責任者として、ボスニアのセルビア人武装勢力(VRS)のカラジッチ大統領、ムラジッチ将軍、隣国セルビアのミロシェビッチ大統領を名指ししていた。

このように、そもそも反セルビアの星のもとに生まれた機関がICTYなのである。そしてこうした土壌を生み出す背景に、米国の広告代理店「ルーダー・フィン社」の暗躍があったことは、一部の人にはよく知られた事実である(高木、ブロック)。

さらに特に初期には、ICTYの起訴の対象が、本来その対象とすべき、指導者や大物ではなく、小物に限られるという批判も多かった。実際、ボスニア紛争を終結させた一九九五年のデイトン和平合意以前の起訴は、ICTYという期限付きの、高額な費用が発生する国際刑事裁判に適さない、強制収容所の看守クラスのセルビア人のみである。

これに対し、ICTYは、和平合意前は紛争中であったため、現場での捜査ができず、西欧諸国にボスニアから難民として逃れた犠牲者や証人の証言が唯一の起訴材料であり、彼ら捕虜や被害者が実際に目撃できたのは、政治や軍事の中枢にいる指導者ではなく、囚人や捕虜に直接接することができる看守クラスであったことをその理由としている(ICTYホームページ、History)。

実際、ボスニアの三民族すべてに有罪判決が出たのは、デイトン和平合意後の一九九八年のことである。

では、実際どれくらいのセルビア人が起訴されたのか。ICTYは、民族ではなく、罪を犯した個人を裁く法廷として、起訴状、裁判記録(証人の保護などの特殊な事例を除き)など裁判に関するほとんどすべてを公開しているが、民族的な内訳は一切公表していない。

そこでそれら裁判記録から、筆者個人の計算となるが、民族別の内訳を辿るとセルビア人六七%、クロアチア人二一・七%、ムスリム人(ボシュニャック人)五・六%、アルバニア人四・四%、マケドニア人一・二%である。これを主要三民族(一五二名)のみで対比するなら七一%、二三%、六%という圧倒的な開きがある。

ムスリム人の被害が圧倒的に多かったことは事実であろう。しかし、「犯罪の量としては圧倒的にセルビア側が多いが、犯罪の質においては、三民族同様である」というのが当時現場にいたUNPROFORや援助関係者の半ば常識であった。これほどの開きがあるほど、被害に格差のある紛争であったのだろうか。

紛争当時、ボスニア紛争の犠牲者はおよそ二〇万人とされた。その後、サラエボの「リサーチ・アンド・ドキュメンテーション・センター(RDC)」がボスニア紛争の全犠牲者の氏名と軍人・文民の別、民族名、死亡場所と死亡日時を明記した犠牲者名簿を作成し、二〇〇七年に公表した。

これにより犠牲者数はおよそ一〇万人に下方修正された。RDCはその後もデータを更新し、最終版を二〇一三年に公開している(Mirsad Tokaca, 2013, The Bosnian Book of Dead, RDC and the Humanitarian Law Center of Serbia, Sarajevo)。

これによれば、民族名が明らかにされていない五一〇〇名を加えた犠牲者総数は一〇万一〇四〇名、このうち民族が判明している九万五九四〇名の内訳は、ボシュニャック六万二〇一三名(六一・四%)、セルビア人二万四九五三名(二四・七%)、クロアチア人八四〇三名(八・三%)、その他五七一名(〇・六%)である。

これに対し、RDC代表のミルサド・トカチャにインタビューしたロイター電(After years of toil, book names Bosnian war dead, 二〇一三年二月一五日付け)は、「西側で受け入れられている説明どおりの結果」というが、筆者の感想は少々異なる【注2】

圧倒的な軍事力の差があったとされるセルビア側とボスニア政府側の軍人の犠牲者の比率にそこまで決定的な開きがない(二者だけの比率なら六:四)と思われる一方で、民間人の犠牲者に圧倒的な開きがある点(およそ九:一)に違和感を覚えたのである。

では有罪判決を受けた九〇人はどうだろうか。これも筆者独自の集計によるが、セルビア人七〇%、クロアチア人一四%、ムスリム人一一・一%、アルバニア人二%、マケドニア人一%である。断定は控えたいが、このRDCの、特に民間人の犠牲者数を見る限り、判決が偏っているとは思えない。

しかし、それでもなお、ICTYは反セルビア的である、という認識が消えないのはなぜか。それは、既述のとおり、もともと、セルビア人を裁くための法廷としてスタートしたこと、ICTYへの不信感から、セルビア人の犠牲者が証言を拒むケースが相次ぎ、セルビア人が被害者である犯罪の立証が困難を極めたこと(藤原111頁)。

この地域に限った話ではないが、自らが受けた被害については、詳細な情報が出回るが、他民族に与えた被害については、詳細な情報が得られない場合が多いこと、さらには、セルビア人が被害者となった重大かつ象徴的な案件で、当事者以外の関係者からも、戦犯と目されるボシュニャックやクロアチア人が無罪となったことがある。

スレブレニツァ近郊で紛争初期にセルビア系住民が多数犠牲となった、セルビア人にとっての「スレブレニツァ事件」で、ムスリム側の司令官であったオリッチの一審判決は二年、上訴審では無罪。

二〇万人のセルビア人がクロアチアから難民となって追放されたクロアチア軍による「嵐作戦」の責任者でカーラ・デルポンテ検察官(当時)がその訴追に執念を燃やしたゴトビナは一審で二四年の判決が出たものの、上訴審では無罪となった。

また獄死したミロシェビッチや四〇年の有罪判決を受けたカラジッチのカウンターパートである、クロアチアやボスニアの政治指導者が訴追されなかったこともある。

クロアチアのトゥジマン大統領はICTYから起訴されることなく一九九九年一二月に七七歳で病死した。ボスニアのイゼトベゴビッチ大統領はICTYによる捜査は開始されたものの完了前の二〇〇三年一〇月に七八歳で死亡し、捜査は中止されている。

ⅠCTYで唯一ジェノサイドと認定されたスレブレニツァ事件判決にも大きな疑問が残る。セルビア人武装勢力により、戦争犯罪や人道に対する罪が犯されたことは疑いない事実である。しかしそれがジェノサイド罪を構成する犯罪であったかについては、政治的判断や配慮が働かなかったとはいいがたい。

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