2 ボスニア紛争で発生したジェノサイド

 ジェノサイド条約はその第一条でジェノサイドが平時にも行なわれうる犯罪と規定し、戦争との連関を切断した。

しかし、ユーゴスラヴィア崩壊の過程で生じたボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争(一九九二年四月〜九五年一一月)の終盤に発生したスレブレニツァ事件は、改めてこの犯罪が武力紛争と密接なかかわりをもつことを証明した。

 人口四四〇万人の紛争前のボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国は、イスラム教徒のムスリム人が四四%、正教徒のセルビア人が三一%、カトリックのクロアチア人が一七%を占め、複合国家ユーゴスラヴィアの「縮図」ともいわれた多民族社会であり、ユーゴを構成した六共和国の中で、唯一特定の民族の故郷と定義されない地域でもあった。

 三民族は、都市・地方限らず、また特定の地域に偏在することなく混住し、政治的にも物理的にも単純な三分割が不可能な状態にあった。

 一九九一年に発生したユーゴ解体の流れの中、隣国クロアチア共和国で、その独立に反対しユーゴ残留を求めるセルビア人が「クライナ・セルビア人共和国」を樹立すると、これに連動する形で、ボスニアのセルビア人も一九九二年一月「ボスニア・ヘルツェゴヴィナ・セルビア人共和国」を創設、このセルビア人がボイコットする中で、翌月ボスニアの独立を問う国民投票が実施された。独立が賛成多数で可決されると、反対派のセルビア人と、賛成派のムスリム人・クロアチア人とが衝突、し烈な内戦へと発展する。

 この紛争は、ボスニア南西部ではクロアチア人とムスリム人の、首都サラエボと北西部・東部ではセルビア人とムスリム人の三つ巴の争いとなり、数字に諸説はあるが犠牲者二〇万人、難民・避難民二二〇万人ともいわれる、現代史に名を刻む凄惨な紛争となった。

 この紛争でサラエボとともにセルビア人勢力に包囲され、その苦境ゆえ国際社会の注目を集めていたのがスレブレニツァである。

 国際連合(国連)の安全地帯に指定され、国連防護軍(UNPROFOR)のオランダ部隊によって防御されていたにもかかわらず、一九九五年七月一一日、ラトゥコ・ムラディチ率いるボスニア・ヘルツェゴヴィナ・セルビア人共和国軍(VRS)の攻撃にあっけなく陥落した。

 オランダ軍は数の上でも、装備の面でも圧倒的な劣勢にあり、北大西洋条約機構(NATO)の空爆も様々な事情でタイミングを逸したからである。

 女性や子ども、また一部男性は、スレブレニツァから北西に六キロほどのポトチャリにあるオランダ部隊本部に避難し、その後ボスニア政府軍支配地に移送された

 しかしここで選別、隔離された兵役年齢の男性と、自力でスレブレニツァを脱出し、徒歩で五〇キロほど離れたボスニア政府軍支配地を目指した一万五〇〇〇〜二万人の男性は、VRSの猛追にあい、その後の約一〇日間に約七五〇〇名〜八〇〇〇名が行方不明となり、このうち約六〇〇〇〜六五〇〇名が処刑されたとみられている。

 ボスニア紛争初期、この地域では地元出身のナセル・オリッチ率いるムスリム人勢力により多数のセルビア人も犠牲になった。

 その報復として兵役年齢の男性が虐殺の対象とされたが、犠牲者の多くは軍事行動とは無関係の市民で一部少年や老人も含まれた。銃や手りゅう弾による処刑場所となったのは、絵葉書に出てくるような美しい牧草地や渓谷のほか、市民生活に直結した学校や体育館、農業用の倉庫や工場、文化センター、サッカー場などである。

 殺害後は、現場付近に掘られた集団墓地に(それを「墓地」と呼ぶには語弊があるが)遺棄に近い形で、重機を用いて埋められた。重機のない現場では、被害者本人に穴を掘らせ、あるいは穴の中に立たせた上で、背後から銃殺するという残忍な方法が取られた。

 さらに九月から一一月には、これらの墓地を再びブルドーザーなど重機を使って掘り起こし、遺体を別の場所に埋め直すという作業が繰り返された。

 このことが遺体の発見と犠牲者の身元の特定を困難にしているが、他方でこの隠ぺい工作はスレブレニツァ事件の存在を否定する勢力に対し、後ろ手に縛られ背後からの銃創がある遺体とともに、犯罪の証拠とされている。

 「犠牲者は合法的な戦闘の犠牲者である」というスレブレニツァ否定論者の主張が正しいのなら、こうした隠ぺい工作は不要だからだ。

 元バッテリー工場であったポトチャリのオランダ部隊本部跡は、虐殺記念館とスレブレニツァの犠牲者の墓碑が立ちならぶ広大な記念墓地となっている。

 この墓地の石碑には、「8372…」という犠牲者数が刻まれているが、数字のあとの三つの点が示すとおり今もって犠牲者の正確な数はわからない。

犠牲者数が刻まれた記念碑(筆者撮影)

 犠牲者の算出は、陥落前のスレブレニツァの人口と、VRSの猛攻を逃れボスニア政府軍支配地にたどり着いた生存者数の差から割り出されるが、たどり着いた生存者数の記録はなく、また避難民の流出や流入の激しかったスレブレニツァに、陥落時そもそもどれだけの人がいたのか、正確な数は現在も不明だからである。

 スレブレニツァ事件の二週間後には、「嵐作戦」と呼ばれたクロアチア軍の猛攻で、今度は二〇万人ものセルビア人がクロアチアやボスニア西部から難民・国内避難民として流出する。

 この惨劇を経た一九九五年一一月、アメリカのオハイオ州デイトン空軍基地で開催された和平会議により三年半におよんだボスニア紛争は幕を下ろした。ここで結ばれたのが紛争後のボスニアの進路を決定づけたデイトン和平合意である。

 デイトン合意でボスニア・ヘルツェゴヴィナは、ボシュニャク(ムスリム人)とクロアチア人中心の「ボスニア連邦(国土の五一%)」と「セルビア人共和国(同四九%)」という二つの主体(エンティティ)から構成され、それぞれが独自の行政府、立法機関、議会や警察を有する高度に分権化された国家となった。

 和平の履行は民生面では国連安全保障理事会の同意を得て和平実施会議が設立され、絶大な権力をもつ上級代表(OHR)が置かれた。軍事面ではNATOを中心とする多国籍部隊(SFOR)が担当したが、二〇〇四年一二月以降は欧州連合部隊(EUFOR)が展開し停戦監視にあたった。

 国際社会による圧政とも揶揄される強大な権力のOHRのもと、ボスニアを一つにするための政治システムがつくられ、選挙が実施された。中央レベルでは、ボシュニャク、セルビア人、クロアチア人の代表からなる三名の大統領会議が置かれ、輪番制で元首の役割を担った。

 一人の大統領による一つの国家に向けた試みは頓挫したままであるが、EUおよびNATO加盟を目指し、多民族・多宗教・多文化という多元的社会からなる一つのボスニアを目指す試みが現在も継続中である。

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