二〇一七年一一月二二日。ICTYにとって閉幕前の一つのクライマックスともいえる日。安保理のメンバー国がICTYの設立前から、訴追対象の戦犯として名指ししていたボスニアのセルビア人武装勢力の最高司令官であるムラジッチ被告に第一審判決が下った。
筆者もハーグのICTY内で判決の行方を見守った。ムラジッチ被告は(拘束前および、拘留中のハーグで発症した脳梗塞の後遺症から感情のコントロールができない状態であったことから)「全部でたらめだ」と大声を出し途中退出を命じられた後の判決言い渡しであった。
ICTY最高刑である終身刑の判決が言い渡されたその瞬間、別室にいたにもかかわらず、犠牲者遺族たちの声にならない声やうめきで、揺れるはずのない重厚なICTYの建物全体が地響きを立てて揺れたような感覚にとらわれた。
七日後の一一月二九日、最後の上訴審判決。ボスニアのクロアチア人勢力がモスタルはじめ、ムスリム人に対して行った一連の犯罪で政治および軍の指導者六人がJCEを根拠として一〇〜二五年の有罪判決を受けた。
ICTY史上、非常に重要な判決であったものの、ムラジッチ判決に比べ注目が低いと思われた裁判が別の意味で大きなニュースとなった。
被告の一人、ボスニアのクロアチア軍の最高司令官プラリャック被告が、判決が言い渡された直後「プラリャックは犯罪者ではない」と叫んで液体をあおり、服毒自殺をはかったのだ。
数時間後病院で死亡が確認された。元映画監督でもあったプラリャック被告の自殺の報にクロアチアでは悼む声が、対照的にサラエボでは「自分で死ねるなんて贅沢だ。あの戦争で死にたいときに死ねた人はいない」「地獄で腐ればいい」という感想があったと聞いた。