七月九日、首都サラエボから一五〇キロの地点にあるスレブレニツァに入った。
その途上で立ち寄ったポトチャリでは、記念式典を二日後に控え、新たに埋葬される緑色の棺に納められた一二七の遺体が、トラックからおろされ建物内に並べられたところだった。
棺それぞれに番号が振られ、氏名が記されている。遺族たちがその棺にすがって泣いている。
世界的な法医学分野における遺体・遺骨のDNA鑑定技術は、ボスニア紛争、特にスレブレニツァ事件によるところが大きいとされる。
その中核を担ってきたのが、デイトン和平合意の翌一九九六年に、リヨンで開催されたG7サミットの席上、米国のビル・クリントン大統領(当時)のイニシアチブで、当時四万名ともいわれたユーゴ紛争による行方不明者の捜索や身元確認のため設立された行方不明者国際委員会(ICMP:International Commission on Missing Persons)である。
遺体の発掘は、一九九六年から始まった。以来二〇年、現在も継続中であるが、ICMPによれば、スレブレニツァに関連して、七〇カ所の二次埋設地が確認されている。
七月一一日の記念式典で兄の遺骨を埋葬したハフィーザさん(五八歳)。しかし埋葬といっても棺に納められているのは頭蓋骨の一部と右手の一部など計三部位のみ。いずれも異なる二次埋設地から発見された。昨年は一九歳だった甥を埋葬したという。
遺体の身元が判明した、というより遺体の一部だけがばらばらに見つかる遺体。いったいどの時点で、どれだけの部位が揃えばよしとするのか。どの時点で、スレブレニツァの墓地に埋葬するのか。
これらはすべて遺族の判断に任されている。指一本でも肉親と思える人もいれば、すべての部位が揃うまで埋葬をためらう人も、拒絶する人もいる。過去二〇年にわたり繰り返されてきた、答えのない、諦めと安堵と迷いの混じる残酷な光景である。
今回の旅では、虐殺地の一つ、ブラニェボ農場で殺害された一〇〇〇名を超える遺体の二次埋設地跡を訪れた。
ICMPによれば、ブラニェボ農場の被害者は、近郊のピリツァに埋められたが、その後、四〇キロ離れた八カ所の二次埋設地に埋め直された。一次と二次埋設地間の距離が最も離れている現場である。
この意味するところは犠牲者の遺体は、状態が良ければ、一カ所に完全な形で埋まっている可能性があるが、そうでなければ、最大八カ所の埋設地に他の数百人の遺骨とともに、ばらばらに埋められたということである。
そうした二次埋設地跡で牧草の刈り入れをしていたベシムさん(七二歳)に話を聞いた。戦況が悪化した一九九三年、家族とスレブレニツァへと避難し、七月一一日を迎えるが、腰を痛め車いすに乗っていたことが幸いし、ポトチャリでの選別を免れ命拾いをすることとなった。
紛争終結から五年がたった二〇〇〇年、故郷に戻り破壊された自宅の修復をしながら農作業を再開したが、二年ほどたったある日のこと、突然大勢の人がやって来て(それはボスニア政府の行方不明者委員会とICMPのメンバーであるが)遺体の発掘が始まったという。
そこで初めて、日々耕していた自分の土地が、スレブレニツァの犠牲者たちの二次埋設地であったことを知る。
ベシムさんは、道路に面した四メートル幅の一角から完全・不完全な形で、五〇六体の遺骨が発見されたと、涙を浮かべながら当時の状況を語ってくれた。
「二〇〇〇年に戻ってから、この一角だけ、牧草の緑が異様に濃いことには気づいていた。でもそれが何故かはわからなかった」という。
チャンチャリ道路と呼ばれるこの道路沿いには一二カ所の二次埋設地が点在する。
ベシムさんの土地から数百メートルの範囲にある二つの集団墓地でもそれぞれ三六二体、二四四体の遺体が発見された。一一一二体もが至近距離に埋められていたことになる。
のどかな、絵葉書のような牧草地の歴史に息をのんだ。
ある捜査関係者によれば、スレブレニツァに関連した行方不明者の遺体があと一〇〇〇体、東ボスニアのどこかに眠っているという。
避難途上、銃撃に遭い、あるいは戦闘や地雷で山中で息絶えた遺体は、痛ましいことに、永久に発見されることはないのではないかという。
他方で、最低もう一カ所、二〇〇〜三〇〇体が埋まる集団墓地が存在することは疑いないとされる。
しかし、それが見つからない。
なぜか。