1 二一年目のスレブレニツァ

 この夏、ほぼ二〇年ぶりにスレブレニツァを訪ね、七月一一日に開催されたジェノサイドの犠牲者追悼式典に参列した。

「スレブレニツァ」という地名に反応する日本人は多くないかもしれない。しかし「銀の町」を意味するボスニア・ヘルツェゴヴィナの小村で二一年前の夏に起きた出来事は、犠牲者の数に圧倒的な違いがあるとはいえ、西欧社会の少なくとも一部の人々にとっては、「ナチ・ジェノサイド」や「アウシュビッツ」と同義語にさえなっている。

7月11日の犠牲者追悼式典(筆者撮影)

 「ジェノサイド(genocide)」とは、ホロコーストにより四〇人もの親族を失ったポーランド出身のユダヤ人法学者ラファエル・レムキンが、「民族・部族」を意味する古代ギリシャ語genosと、「殺害」を意味するラテン語cideを組み合わせて、一つの民族の破壊を指す用語として編み出した造語だ。

 レムキンの尽力で一九四八年に採択されたジェノサイド条約(集団殺害罪の防止及び処罰に関する条約)において、一つの集団(条約上は国民的、人種的、民族的、宗教的四集団)の全部又は一部を破壊する明確な「意図」をもって行なわれる犯罪と定義され、日本語では「集団殺害」と訳されている。

 この条約採択から半世紀、旧ユーゴスラヴィア国際刑事裁判所(ICTY)初の、そして国際刑事裁判としてはルワンダに続き史上二例目のジェノサイドとして有罪判決が出たのが、「第二次世界大戦以来の欧州で最悪の虐殺」と称されるスレブレニツァ事件だ。

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