赤十字組織にとって独立原則とは何を意味するのだろう。次に、赤十字組織にとって、また混迷の時代を生きる現代の私たちにとって独立原則が意味するところ、問いかけることを、ジェノサイド予防を研究する立場から、考えてみたい。
筆者は実務家として、日本のNGOの立場から人道支援や地雷対策にかかわってきた。他方、研究者としては、ジェノサイド(集団殺害)発生のメカニズムや予防、国際人道法の違反行為、国際刑事裁判などを専門領域としている。
難民を助ける会の駐在員として旧ユーゴスラヴィア地域に滞在していた1995年7月、3民族による三つ巴の戦いとなっていたボスニア・ヘルツェゴヴィナの東部スレブレニツァにおいて、第二次世界大戦後の欧州で最悪の虐殺と言われる、ジェノサイドが発生した。
筆者は発生当時、現場近くにおり、またその首謀者であり、現在は、旧ユーゴスラヴィア国際刑事裁判所にて第一審公判中のラトゥコ・ムラジッチ(Ratko Mladić)被告(元ボスニア・ヘルツェゴヴィナセルビア人共和国軍将軍)やその家族と面識があったことから、博士学位論文では、スレブレニツァのジェノサイドを主題として取り組むこととなった。
紛争末期のあの時期に、あのような事件はなぜ起きたのか、どのように起きたのか、誰がどのようにかかわったのか、どのような決定がいつ誰によってくだされたのか、類似の事件の予防を念頭にそうしたスレブレニツァ・ジェノサイドのメカニズムの解明や、国際社会の介入、ジェノサイドの予防について論じた。
そうした研究の過程で、ICRC元副委員長のジャン・ピクテの、「人道の4つの敵」に再会した。ピクテは冒頭で引用した『赤十字の諸原則』 の中で「人道の4つの敵」として、利己心、無関心、認識不足、想像力の欠如について述べている。
この4つの敵については、筆者が所属する難民を助ける会の創設者の一人が、赤十字とゆかりのある吹浦忠正元副会長(現顧問)であり、また年次総会で、副社長時代の近衞忠煇日本赤十字社長にご講演頂いたこともあることから、いつの頃からか耳にしていた。しかし、博士課程在籍中、博士論文を執筆する過程で、改めて、この4つの敵とホロコーストとのかかわりについて知ることとなり、大きな衝撃を受けた。
後述するように、ICRCがホロコーストに対して声を上げないという組織決定を行った場に同席し、その経緯を深く知るピクテが、その時の深い後悔と自責の念も込めて辿り着いた「4つの敵」であると知ったからだ。その際の驚きと衝撃が、常に頭の片隅にあり、去ることはない。
ジェノサイドや大規模な人権侵害を前にした際の、人道支援団体の中立と沈黙の問題は、第二次世界大戦時のICRCの対応を抜きに語ることはできない。
600万人ともいわれるユダヤ人の集団殺害に対するICRCの対応については、スイス人の歴史家ジャン=クロード・ファベ(Jean-Claude Favez)の1988年の著作『赤十字とホロコースト』 に詳しい。
この労作は、戦後40年にわたり、この問題に対し批判にさらされ続けたICRCが、1980年に、ナチ支配下の文民・民間人の犠牲に対するICRCの対応に関し、記憶と知識双方のアプローチから、より正確な知識と理解を得ることが責務であるとし、またその研究は、外部の研究者の目を通して行われ、詳細な資料、参照に裏付けられたものでなければならないとし、ファベらにICRC所蔵の資料・記録を公開し委託した研究の成果である。
この作業を通じ、1941年春にヒトラー(Adolf Hitler)が口頭で指示を出し、1942年1月のバンゼー会議において実務的調整が図られたユダヤ人の「最終解決」について、連合国、ユダヤ人組織同様に、1942年夏までにICRCのブルクハルト(Carl J. Burckhardt)副委員長が承知していたという事実が明らかとなり、さらに救助の嘆願に対し、1942年10月に召集されたICRCの「ユダヤ人虐殺に関する特別会議」が、ユダヤ人の人権擁護のためにドイツに抗議書を送ることを否決するという組織決定を行った経緯についても明らかになった。
また、これに先立ちブルクハルト副委員長ら幹部がドイツの収容所を訪問し、好意的な報告を行っていたこと、1938年11月のフランス外務省のユダヤ人難民の受入国の組織化に関する研究依頼に対し、ICRCの業務は、各国赤十字社の調整が主であるとして、拒否したこと、1939年春にスウェーデン赤十字が、ドイツの難民キャンプの状態改善に関する国際的活動を提案したところ、ICRCは、難民問題は、政治犯に関することであり、ドイツ赤十字社の管轄にある国内問題であるとしたことなども明らかにされた。
こうした一連の決定を導いたICRCを取り巻く内的・外的要因についてファベは次のとおり分析している。
まず環境要因としてICRCの活動の法的根拠である国際法上の制約があげられた。ジュネーヴ条約の適用範囲は、陸戦及び海戦の傷病兵や捕虜に限定されており、文民は対象外であったこと。
ICRCに付与されていた「人道的イニシアチブの権利 (droit d’initiative) 」 でさえ1929年の捕虜条約に根拠を置いたものであったこと。また、第二次世界大戦開始直後から、ICRCは抑留された在留敵国民の保護を定めた「東京草案(1934年)」
の実行を呼びかけていたが、関心を示す国がなかったこと。政治経済的環境としては、中立国スイスにとってドイツは、共産主義に対する防波堤であるとともに、金融取引の重要な相手国であったこと。ユダヤ難民の大量流入を恐れていたスイス政府は、1938年にナチス・ドイツとともにユダヤ人を識別するための「J」スタンプを導入、その後もユダヤ難民に対する国境封鎖や「収容所制度」など一貫して冷淡なユダヤ人政策をとっていたこと。
ICRCの内部要因・制約としては、ICRCが第二次世界大戦開戦時、事務職員57名という小規模組織であったとともに、スイス連邦大統領フィリップ・エッター(Phillippe Etter)や国際連盟のダンツィヒ代表であったブルクハルトを有力委員として迎えるなど、スイス政府からの独立に失敗するという組織的・機構的制約があったこと。
他方で、一般会計、戦時会計ともに、その財源を、8カ国の政府拠出金、各国赤十字・赤新月社の拠出金、スイス国内の寄付等に頼っており、中でも、スイス政府からの拠出が突出していたこと。そして、ICRCの組織戦略が、本来業務を果たすために中立を優先し、世界大の活動へ拡充することを念頭においていたこと。
さらに赤十字組織としての構造的制約として、財政、活動、中立性の維持などを各国の赤十字・赤新月社に依存しており、各社は、衛生兵など軍隊の医療部門を担う補助機関として各国政府と強いつながりをもち、またドイツ赤十字そのものがナチ化していたこと、が挙げられた。
ではピクテはこうした一連の事態にどのようにかかわっていたのか。1942年8月、世界ユダヤ人会議ジュネーブ代表のゲアハルト・リーグナー(Gerhart Riegner)が、カール・ブルクハルトICRC副委員長にナチによるユダヤ人に対する「最終解決」の情報を提供し、救助の嘆願をしている。
この時、1942年夏までに、連合国同様、ブルクハルトが「最終解決」に関する情報を知っていたことは明らかとされる。
しかしブルクハルトがこの救助の要請に応じることはなかった。秘書官であったジャン・ピクテは、マックス・フーベル(Max Huber)委員長 に嘆願、その結果、この2カ月後の10月に、ICRCは委員による「ユダヤ人虐殺に関する特別会議」を招集することになる。議題は、ドイツに抗議書を送るべきか否かであった。しかし、委員の過半数が賛成したものの、時の大統領フィリップ・エッターの発言により否決される事態となった。
戦後、ナチ・ホロコーストの全容が明らかになった際の、ピクテの衝撃は想像するにあまりある。ユダヤ人に対する何らかの人権侵害が起きていることは承知していた。しかし、あれほどの規模と方法で行われていたことへの想像力と認識が欠けていたと。連合国、ユダヤ人組織、そしてICRCともに、理解し得ないことを理解するという局面において、「知識」と 「理解」あるいは「認識」が必ずしも一致していなかったと。
こうした経験をもとに戦後、ICRCは人道原則とともに、徹底して、独立原則を重要視することになる。
他方で、こうした経験を経てもなお、沈黙、あるいは、人道に対する罪やジェノサイド罪、重大な戦争犯罪など、国際法上の重大な犯罪を裁く国際刑事裁判所などで、「証言」をしないことは、ICRCならびIFRCの重要な原則であり続けている。
2012年、IFRCの事務次長職にいたムケシュ・カピラ(Mukesh Kapila)がジェノサイドや人道に対する罪の予防に専心するためとして、職を辞したことが象徴的である。
カピラは、国連の元スーダン人道問題調整官としてダルフールの状況を現在進行中の「世界で最も深刻な人道危機」として告発した人物である。
カピラは、その退任の挨拶の中で、自身の辞職が赤十字の「沈黙」あるいは「中立」と深い関係があることを語っている。2012年当時、ジェノサイドと呼ぶべき状況が収束していないダルフールにおいて、また同様の事態が進行しつつあった南コルドファン州で「声を上げることのできない犠牲者の代わりに」いかなる躊躇もなく、声をあげ、自由に発言することを選ぶためであり、そうした行動は、赤十字の「中立」と矛盾するというのが彼の辞職理由の一つである。
この事実は、「中立」という赤十字の大原則の重要性、あるいは非妥協性を示しているように思える。こうした人材を去らせてでも、あるいは、そうした犠牲を常に伴いながら赤十字組織が、守ってきた原則、守り抜く原則、守らなければならない原則。それは、決して教条主義的理由からではなく、そうした原則を死守しなければ救援活動が困難になり、アクセスできない被災者がでるためである。
しかしながら他方で、こうした姿勢を貫くことは、ジェノサイドや人権侵害の告発には、完全なる無力とならざるをえない。
アムネスティ・インターナショナルやヒューマン・ライツ・ウォッチといった、人権侵害の告発を使命とする組織にとっては、当局の人権侵害の告発は主たる業務である。
他方、援助活動を行う組織にとって、活動の過程で目撃した政府や当局による人権侵害を告発することは、時に、その地域からの強制退去を意味する。
人権侵害や紛争地の現場で、苦難にさらされる人々とともにあり、その人々を支援することと、当局に対する告発は両立させることが限りなく難しい。
そして、赤十字組織同様、私が理事長を務めるNGO・難民を助ける会(AAR Japan)も、人権侵害の告発ではなく、常に人々とともに現場にあること、その時々の私たちにとっての最前線で、難民や被災者、地雷被害者や困難な状況に置かれた人々に寄り添うことを、意識的に選択した。
第2次大戦中のナチ・ジェノサイドに対するICRCや赤十組織の沈黙がこの上なく根強い脅迫観念となり、赤十字の誤りを繰り返さないということが創設時の根幹にあった、それゆえ、設立には、緊急医療処置のための集団を組織すると同時に、世論に警告を発する役割を担うという二重の目的があったという国境なき医師団(MSF)
のように、全体主義的性格の政治当局と衝突する「拒否する倫理」を貫く組織は重要である。しかし、すべての人道支援団体がこの論理を貫くと、現場で苦難の中にある人々とともにあることはできなくなる。MSFはルワンダや北朝鮮から撤退した。しかし、そこに残って支援活動を続けたNGOや人道支援組織も数多い。